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つくり手だけの実感

※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。

身体を動かす。すると反応がある。また身体を動かしてみる。

そうやってつくられているのが、佐賀県にある『鍋島』という日本酒です。

こだわった酒をつくり、市場を開拓するところから、蔵元や酒屋さんが一緒になってブランドを育ててきました。

スクリーンショット 2017-04-27 15.24.53 先頭に立ってきたのが、佐賀県・鹿島にある富久千代酒造

ここで日本酒をつくる蔵人を募集します。



福岡空港から電車を乗りつぎ、1時間半ほどで肥前浜駅に到着。

取材まで時間があるので、周辺を散策してみる。

酒蔵通りには、古くて立派な建物が並ぶ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 辺りには2軒の酒蔵が軒を連ね、歩いていると日本酒の甘い香りが漂ってくる。

富久千代酒造へ向かう途中、自転車に乗った中学生ぐらいの男の子が「こんにちは」と挨拶してくれた。ここではそれが日常のようだ。



『鍋島』は、このまちで生まれた。

その輪を広げてきたのが、富久千代酒造の代表・飯盛直喜さん。

「私が大事にしている言葉の一つに、『故郷に錦を飾る』という言葉があります。地元に愛され誇れるお酒をつくり、地元でファンをつくるということがいちばんの目標でした」

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 東京で就職していた飯盛さんが鹿島に戻ってきたのは1987年。

そのころ、こだわった酒をつくる蔵元はあっても、地元で売れるのは手頃な価格のお酒だった。

加えて、酒類免許の緩和によって、ディスカウントストアやコンビニにもお酒が商品棚に並ぶようになった。

小さな蔵元がつくるお酒を、1本1本背景を伝えながら手売りしてくれていたまちの酒屋さん。彼らが価格競争に巻き込まれ、どんどん店をたたんでいく。

そんな状況に飯盛さんは危機感を抱いた。

「こだわったお酒をつくる蔵になること、そしてつくったお酒を地元で楽しんでもらうために酒屋さんたちとパートナーシップを築くことを決意するんです」

北九州にある地酒専門店のオーナーとの出会いがきっかけで、「佐賀・九州を代表するお酒をつくること」をコンセプトに決めた。飯盛さんは、賛同してくれる仲間を集めるため、佐賀の酒屋さんを訪ねてまわった。

けれど、酒屋さんたちの反応は今ひとつ。

こんなに厳しい状況なのに、どうしてまだ市場もないところで、あえて挑戦しなくちゃいけないのか、という返答ばかり。

飯盛さんは、まちの酒屋さんが自分たち蔵元にとってどういう存在であるか、一緒になって何をしたいのかということを、時間をかけて伝えていった。

そんななか酒屋を営む4人の若手メンバーが集まり、どんなお酒をつくっていくか、話し合いを深めた。

「僕らのような名もない蔵元や酒屋が新しい市場をつくって成功するということは、あとに続く若手の蔵元・酒屋さんたちの未来につながる。だからこそ、僕らが成功しないと後がない」

そのくらい覚悟は固かった。

ラベル 飯盛さんは、それまで手がけていた銘柄の販売数を少しずつ減らしながら、よりこだわったお酒をつくるため、3年の時間を費やした。

いいものをつくろうと思えば設備投資のコストがかかるし、売り手である酒屋さんにとっても仕入れのリスクが出てくる。

「意見をすり合わせながらお互い利益を出さないといけない。お酒づくりと並行して、蔵元さんや酒屋さんと腹を割って話すことに時間をかけていました」

こだわった酒が地域に根づいていくための土壌をつくりながら、1998年、ついに『鍋島』が誕生した。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 「鍋島ができあがってからも、ブランドを育てていくために、おいしい飲み方を提案したり、お酒にあった料理のメニューをつくったりと、酒屋さんや飲食店さんたちといろんなことを一緒にやっていきました」

「そうやって地道に地道に、鍋島の応援団づくりを進めていって。ちょっとずつ形にしていくことが、いちばんの基本でした」

地元で足場を固めた後は、東京でもパートナーシップづくりに取り組んだ。

だんだんと、人々の間で鍋島が広まっていった。

2011年にはIWC(国際ワインコンテスト)の日本酒部門でチャンピオン・サケを受賞。その後も様々な賞に輝いている。

ギャラリー 最近は、欧米やアジアでも人気を集めているという。味に魅了されたファンが、わざわざ香港から蔵を訪ねてきたこともあったとか。

「今は、いろんな情報がインターネットで発信され広がっていく。でも、鍋島をはじめた基礎の段階では、そういう方法をもっていなかったことが逆によかったのかなと思っているんです」

逆によかった?

「Webでポチッとクリックしてもらえば売れる。それではだめなんですよ。少量でもこだわってお酒をつくる人のことを伝えてくれるお店があって、徐々に人々の手に渡っていく。それが重要なんです」

「時間はかかりますけど、確実というか」



一歩一歩を積み重ね、つなげていく。

それは、酒づくりに共通することかもしれない。

日本酒は、10ほどの複雑な工程を経てつくられる。

まずは精米から。

富久千代酒造で使うお米は、玄米を100とすると約半分前後は削っている。

精米したお米を洗って水につけ、翌日、お米を蒸す。

蒸しあがったお米に菌をふりかけ、麹をつくる。

麹は、お米に含まれるデンプンを分解してブドウ糖にする。ブドウ糖をアルコールにするのが酵母。

水と蒸し米と麹を混ぜ合わせ、数日かけて酵母を増殖させていく。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA そうして醪(もろみ)ができ、1ヶ月ほどするとお酒になる。

蔵人にはそれぞれの担当があるけれど、状況を見てほかの仕事を手伝うこともあるそう。

主に醪の分析を担当している堂満さんは、酒づくりについてこんなふうに話す。

「毎日同じような作業をやっているようで、そうじゃない。つくり方やその日の気候などによって、醪の発酵状態も『今日はすごく泡立っているな』とか『今日はあんまり元気ないな』って、毎日違ってきます」

堂満さんもろみ-1 蔵人になって3年目。仕事はまったく飽きないという。

「つくる過程が少し違うだけで、甘みや酸味の強さが違うそれぞれの酒ができあがる。いろんな要因があるので何が違いを生むのか、なかなかたどり着けない。だからこそ、面白いです」



もう一人、昨年9月から蔵人に加わった、大島さんにも話を伺う。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 「2年前の日本仕事百貨の記事を読んで、『日本酒をつくる仕事に就く』という選択肢が存在することを知って。面白そうだなと思いました」

そのときは募集が締め切られていたものの、大島さんは次第に興味をもっていく。

どういう仕事なのか、力仕事は女性でもできるのか。

インターネットで調べたり、日本酒の本を読んだりしていくうちに、どんどん気持ちが傾いていったという。

どこかで蔵人の募集をしていないか調べてみたけれど、なかなか見つからない。

「どうしたらいいかわからなくて。そのときこちらでは募集をしていなかったけど、ここで働きたいんですって手紙を出しました」

そのとき働くことにはならなかったけれど、昨年募集がかかったタイミングでふたたび応募した。

蔵人になりたいという想いは、それほど揺るぎないものだったのかもしれない。

一体何がそこまで大島さんを動かしたのだろう。


愛知県に生まれ、高校・大学と地元の学校に通い、卒業後も地元で医療機器の商社に勤めていた大島さん。

「別に嫌なこともなく楽しかったし、それはそれでよかった。でも、自分で明確にこれだ!って思って選択したことがなかったんですよね」

応募するとき、蔵人になるという選択が自分にできるのか、蔵人の仕事が務まるのか、不安はあったという。

「それでも、心からやってみたいと思うものが自分にもあるんだって気づけたことが、すごくうれしくって。人生に一度くらい、飛び込んでもいいかなと。エイッて感じですね」

蔵人になって8ヶ月。大島さんの主な担当は、洗米・浸漬という工程と、お酒のサンプルの分析をすること。

精米されたものを洗って糠を落とし、水につけたものを見せてもらった。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 手で潰れるほど柔らかい。

使うお米の量は、3回に分けて行われる麹の仕込みによって異なる。多い日だと1000kg、少ない日でも300kgのお米を使うそう。

「お米の種類や精米具合、その日の水温によって、吸水率も変わってきます。今までのデータをもとに、秒単位・分単位で時間を調節して、うまく目標の吸水率に届くようにするんです」

仕事の繊細さに驚かされる。

「しかもそれが絶対ではなくて、つくりの途中でお米の種類によって吸水率を変えていったりもします」

吸水がうまくいっていないと、お米の蒸し具合、さらには麹や醪の仕込みまで影響が出てしまうという。責任の大きな仕事。

「難しいなと思うのは、こうすればどういうお酒ができるという決まった答えがなく、未知なところ。でも、だから面白いんだと思うんです」

大島さんの言う面白さ。それを実感できるのは、きっとつくる人だけ。

「以前はパソコンでシステム上の管理をする仕事だったので、実際自分たちが売っている商品をほぼ見たことがない状態でした」

「ここだと、自分が手をかけたものが、商品になって売られていくのが目に見える。体を動かして、実感を持ちながらものをつくっていけるのが気持ちいいなって」

大島さん仕込み 一方で、それは大変なことのようにも感じます。

「大変なこと…、私はあまりそう感じないかもしれません」

「ただ、蔵人で女性なのは私一人で。たぶん多めに見てもらっているところもあります。そこがもどかしい部分です。もう少し自分ができる仕事の幅を増やしていけたらと思います」

自分の背よりもはるかに高く大きいタンクを相手に仕込みをしたり、瓶の詰まった重い箱を運んだり。体力がないと難しいと思う。

それに、体を動かしながら、感覚を鋭く働かせることもきっと大切になる。

このまちの暮らしはどうですか。

「この辺りは昔から住んでいる方が多いなかで、私は突然現れたような人間。こっちに来て間もないころ、地域の運動会に参加したら、まちの人が『よく来てくれた!』と迎えてくれたんです」

「田舎といえば田舎ですけど、いい飲み屋さんもあるし。飲み屋のおばあちゃんやおじいちゃんも私のことを覚えてくれたりして。私はこのまちのことが好きです」

大島さんはどんな人と働きたいですか?

「10人ほどの人数で、ほぼ毎日顔を合わせてつくります。何ができるかというより、一緒につくっていける空気感をもった人だったらいいなと思います」


鍋島が誕生してもうすぐ20年。

外観 これからも、地域に誇るお酒として人々に楽しんでもらうため、富久千代酒造の酒づくりは続いていく。

酒づくりと向き合うなかで得られる実感は、鹿島のまちの歴史を紡ぐことにもつながっているようでした。

(2017/05/11 後藤響子)