はじめに

屋久島を訪れたのは20年ぶりだった。羽田から鹿児島まで飛行機で2時間弱。そこからさらに飛行機に乗り換えて30分。高速船なら鹿児島港から2時間半、フェリーなら4時間。

でも今回の目的地はさらにフェリーに乗り換えて1時間40分のところにある「口永良部島(くちえらぶじま)」だ。冬場は時化ることも多く、船が欠航することもあるという。10人ほどの乗客とともに船に乗り込む。間もなく出港した船は少し揺れるので、船室にゴロンと寝転んだ。

今回はこの島に移住する人を募集する。取材して記事を書くとともに、じっくり半年ほど関わっていく。10月26日には「島で生きる」ことを考えるトークイベントをしたり、11月にはワークショップ、そして12月には島に興味のある人とともに、あらためて島に訪れる予定だ。

日本仕事百貨でも島でお会いした方々の話を一つひとつ振り返っていこうと考えている。今回は、まず口永良部島とはどういう場所で、島を訪れて感じたことなどをまとめてみたい。

口永良部島は、屋久島の西、12kmほどのところに浮かぶ島で、形はひょうたん型。

活火山である新岳からはモクモクと噴煙があがっている。温泉も多く、島のあちこちに公衆温泉がある。初日に滞在した湯向(ゆむぎ)という集落にも公衆温泉があって、みなさん公衆温泉に入られるので、どの家庭にもお風呂がないそうだ。

開聞岳からトカラ列島まで見渡せる海の要衝に位置していたため、薩摩藩や第2次世界大戦後の数年間も密貿易の拠点となり栄えたそうだ。

ただ数十年前は300人いた人口も、今は150人ほど。

主な産業は運送業、畜産業、漁業、民宿、あとは芋焼酎用にサツマイモを育てているくらい。商店はJAも含めると3店舗、それにガソリンスタンドがあるけど、飲食店などはない。郵便局や役場の出張所、それに小中学校などで働く人以外は、複数の仕事をしながら生計をたてている人が多い。

ただ今回は島に移住してくれる方を募集することになるのだけれど、とくに求人があるわけじゃない。住宅も余っているわけでもなくて、この半年間、どうやって島で生きていくか、一緒に考えるところからはじめることになる。

これだけなら移住することはとても難しいのではないか、と思うけれど、UターンやIターンなど、島で暮らしはじめる若い人もいる。本人次第で生きていくことはできるかもしれない。

屋久島を出港した船は、気がついたら口永良部島の玄関である本村(ほんむら)に到着した。

天気は残念ながら曇り。今にも雨が降り出しそうだ。少し船酔いした体を持ち上げて、窓から港を眺めてみると、何人かの若い人たちが動きまわって下船の準備をしている。聞けば滞在中にお話を聞く人がいるそうだ。

いくつかコンテナと車も降ろされている。毎日一便運行されているフェリーは、島の大切な生命線なんだと実感する。

港に降りてみても、島の全貌は分からない。ただ濃い緑と噴煙を上げる新岳だけが目に飛び込んできた。第1印象は、ここに移住する人はいるのだろうか、というものだった。なんともさびしい感じがしたし、生活感というものがまったく感じられなかった。不安な気持ちになる。本当に人が住んでいるの?

島では2泊3日滞在した。その間にいろいろな人に会ってお話を伺い、島の生活のごく一部も見せてもらった。

短い時間だったけれど、島を出発するときには、はじめに抱いていたものとは違った印象になっていった。いろいろな人に会って、島での生活の一部を見せてもらって「ここに移住したいと思う人もいるかもしれない」と思うようになった。

まず印象的だったのが子どもたちの姿。

島には小中学校があって、夕方になると下校する子どもたちに出会った。島に家族で住んでいる子もいれば、山海留学と言って、親元を離れてホームステイしながら学校に通っている子も多い。小さな子も大きな子も、歳に関係なく一緒に歩いたり、遊んだりしている。

ちょうど島に歯医者さんがやってきていたときだったので、ランドセルをおいた子どもたちは、すぐに島にある診療所に集まっていった。

子どもたちが活き活きとしているのもいいな、と思ったけれど、どの子に対しても大人は同じように接していたことが心にとまった。

道端で子どもたちに会えば、必ず名前で呼んで、声をかける。しばらく立ち止まって世間話をしてから別れる。

途中で話しかけた子のなかには、島を案内いただいた方のお子さんもいたそうなのだけれど、どれがその方の子どもなのか分からなかった。つまり、どの子にも同じように接していた。まるで島全体が大家族のようだった。

もし危ないことをしている子どもを見かけたら、自分の子どもじゃなくても声をかけるんだろうな。怒ることもあると思う。だからどの親も安心して子どもたちを遊びに行かせることができる。

けれど小さな診療所しかないから、大きなケガを心配している親も多いとのこと。時化で船が欠航したり、ヘリコプターを飛ばせないようなときは、家の中で遊ばせるそうだ。

もうひとつ、印象深かったのは、島の人たちが自立していること。なんでも自分たちでつくってしまう。

一番びっくりしたのが住宅。島では自分で家を建てられないと一人前とは言えないそうだ。基礎からつくって、製材して、上棟していく。もともとあった古民家に移り住んだ人も、いつか自分で建てようという人が多かった。

食料も同じ。調味料やお米以外は、魚釣りをしたり、畑でとれたもので十分だったりする。

たくさん収穫できたときは、ご近所さんにお裾分け。家に帰ったら、玄関先に大きな魚が置いてあった、ということもあるそうだ。そういうときは、必ず誰が届けてくれたのか調べて、またお返しをする。

島にはいたるところに鹿がいるので、猟師さんにはじめて解体するところも見せていただいた。はじめは見ることができるか少し不安だったけれど、芸術のようなナイフさばきで、気がついたらあっという間に見慣れた肉の塊になっていた。

しっかり血抜きされたロースや心臓を食べたのだけれど、くさみもなくておいしい。子どもたちも鹿を見て「かわいい」というよりも「美味しそう」と言うそうだ。

すべてがつながっている。大きな家族のようだし、生活も自分たちでつくりあげる。身近に死も感じられる。それぞれが自立しながら共生している。

もちろん生活することは簡単じゃない。就職先を見つけるのは難しい。電話や水道の管理の委託を受けたり、道路のメンテナンス・維持をしたり、山海留学の受け入れ先になったり、漁業や畜産をしたり、夜光貝でアクセサリーを加工したり。

鹿の駆除だって、猟友会に所属していれば一頭あたり5,000円支給される。一人でいくつかの仕事を掛け持ちする人が多い。

生きていくことはたぶんできる。あとは本人次第なんだと思う。こうしたら間違いない、というものはないけれども、島の人たちのインタビューを掲載していくので、そこにヒントはあるかもしれない。

もう少し知りたい、考えたい、という方がいたら、ぜひ島を訪れてみてください。