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ニュースを見る限り、どうやらぼくらの将来は明るいことばかりではないらしい。けど、憂いてばかりじゃ仕方ないし、他人任せにしていてはどうしようもないのかもしれません。
ならば、自分の手で理想の社会やほしい未来をつくってしまおうというのも一つの手。
実際にそうやって地域で活動している人が、鳥取県の日野町にいます。
日野町は鳥取の中でも山奥にあって、住民のほとんどが高齢者という地域。日本のあちこちにある中山間地域と同様に、日野町も少子化や高齢化などのさまざまな課題を抱えています。
そんな日野町に地域おこし協力隊として入った石村勇人さんは、アーティストインレジデンス「奥日野里山藝住祭」を昨年に開催しました。
「限界」と言われるようなこの町に普段見かけない人たちがたくさん集まり、住民の方々もとても楽しんでいたそう。
ほかにも協力隊の域を超えてさまざまなアクションをはじめようとしている石村さん。
なぜやるのか、と質問すると。
「自分がよりよく暮らしたいから。子どもにいい世界で暮らしてほしいから。自分や家族の幸せのために仕事をしている感じですね」
特別な想いでもなく、誰にでも当たり前にある気持ちのようです。
今回は、日野町の地域おこし協力隊となって石村さんと一緒に活動する人を募集します。
まずは目の前にある自分にできそうなことからはじめてみる。人や地域が少しずつ動き出していく、そのきっかけづくりをプレイヤーとなって学べる3年間になると思います。
石村さんが活動拠点としている上菅には、米子から電車で1時間ほど。
このあたりは「奥日野」ともいわれ、とても山深い地域。
ご夫婦で日野町へやって来た石村さん。
奥さまは出産のために北海道へ帰郷中なのだそう。つい先週に第一子となるお子さんが生まれたというタイミングでの取材でした。
「だから、ちょっとさみしいんですよ」と照れ笑いの石村さん。
町の人もとてもよろこんでくれたそうです。
「毎日19時半に町の情報が家の無線で流れるんですけど、石村家で子どもが生まれたと(笑)。町を挙げてじゃないけど、会う人会う人に『よかったね』と言っていただけて。ほんとありがたいことです」
石村さんは米子の出身。日野町には2013年にやって来ました。
縁があって日野町に来たのかと思ったら、とくにそうでもないみたい。一番は田舎暮らしがしたくて「知り合い伝えでたまたまここを選んだ」とか。
「朝一番に起きて窓を開けても、仕事に行くまでも、仕事場も緑いっぱい。東京にいたころ、よく山梨へキャンプに行っていたんですけど、あのときと同じ感覚で毎日を楽しめていて。東京で仕事していたころのストレスと比較したら、それはもう気持ちいいくらいだし」
「それと、この家の持ち主が近所のおばあちゃんに畑を任せていて、そのおばあちゃんがよく野菜をくれるんです。ここで暮らしていく上で、人の温かさがよりわかってきたというか」
一方、協力隊としての活動はというと、はじめの1年間はひたすら草刈りに参加したり、高齢者支援もやってみたりした。
町主催の祭りの副実行委員長を任されたり、町づくり委員会に参加するようにもなり、だんだんと町の人から信頼を得られるようになったそう。
それでも「結局、地域をおこせなかったんですよ」と石村さん。
「おじいちゃんおばあちゃんと何かをやっても、ただそれで終わり。次の世代が楽しめることはない。だから若い人なんて来ない。僕が入ってきた2年前の人口は3500人以上だったのに、いまは3300人くらい。町としても何もやってこなかったんですよ」
何もやってこなかった?
「そう。というか、やれなかったんですね。15年くらい前に大きな地震があって、ここは震源地だったんです。そのとき行政が家の建て直しとかやってあげたはいいけど、お金がなくなっちゃって、ほかのことに予算をつけられなくなって」
そんな状況が長く続いたため、自活的な住民が意外と多いのも日野町の特徴だといいます。
昔から古民家で民泊をやっている方がいたり、絵がものすごく上手い64歳のデザイナーの方がいたり、廃校跡に食品加工場をつくって地元のおばあさんたちが豆腐づくりをしていたり。
「みんな元気でハッピー。それはそれでよくて、今後も続けていってほしいんですよね。けど、それは一部の地域の人の話だし、町として一緒にやっているわけでもない。全部つなげないと日野町は活性化しないと思ったんです。で、僕は僕で新しいことをつくって、そのあとで融合すればいいかなって」
地域おこし協力隊といえば行政の臨時職員になることが一般的だけれど、日野町では個人事業主として業務委託で仕事をすることになります。
つまり副業をしても、会社を立ち上げてもいい。仕事領域を広げれば、行政から新しいことを依頼される可能性もある。
石村さんは協力隊2年目に一般社団法人里鳥を設立。
都市と農村や世代間の交流を生み出し、地域の交流人口を増やすことを目指してアーティストインレジデンス「奥日野里山藝住祭」を昨年開催しました。
目指すのは、アートで都市と農村や世代間の交流を生み出し、地域の交流人口を増やすこと。
石村さんのネットワークを通じて写真家や造形作家、音楽家などさまざまなジャンルのアーティストを14組招へいし、町に眠る古民具や自然素材を使った作品を古民家で発表しました。
さらに、遊休化したキャンプ場を舞台にした野外アートフェス「源流祭」を実施。どの世代の人も楽しめるようにと、午前を敬老の部、お昼を子どもの部、午後を大人の部に構成。
地元の方々の協力も得て、民謡や神楽を入れたり、お絵描きができるスペースをつくったり。夜は爆音で朝まで踊ったそう。
「若者が『里山も面白いんじゃない?』と思ってくれた感じを肌で感じましたね。観光地の大山のほうや都市部の米子市じゃなくて、里山に移住もいいんじゃないかって少しでも思ってくれたんじゃないかな」
地元の方も「アートはよくわからんけど」と一様に言いながらも、とても楽しんでくれた。
近所のおじいさんとお孫さんが一緒に来て遊んでいったりする姿もあったといいます。
「今回のアーティストインレジデンスで一番よろこんでもらったのは、作品を置いた民家のある集落の人たち。最初はすごく反対されたんですけど、20年間空き家で幽霊屋敷になっていた家をきれいにしたら、風通しがよくなったってすごくよろこんでくれて」
「家の持ち主の方は米子に移り住んでいて、そんな状態のままにしているからなかなか集落に戻れなかったんですよね。その方は藝住祭に来て、家を見て泣いてよろこんでくれて。子どものころあそこで遊んでいたって話をしはじめてくれて、それを聞いてやってよかったなって思いましたね」
それにしても藝住祭の写真を見せてもらうと、どれもものすごくかっこいい。
「すごいのは僕じゃなくて、集まってくれたプロのアーティストたちですから」
そう言いつつも、全体をまとめていたのは石村さんただひとり。構成や見せ方だってものすごく考えられている。これまで100人以上もの友だちが日野町へ来てくれたそうだけど、そういうのもなかなかできないことだと思う。
地域活性化の王道ではないけれど、確実に成果を上げている。どうしてそれができるのだろう。
「一番は国の方針や県や町が求めていることをやるんです。で、その裏面として僕らのやりたいことをやる。つまり、意義がちゃんとあるなかでいかにデザインしてやるかが大事で」
「昨年の藝住祭でのフェスなんて、僕の趣味みたいなものなんです。けれど、やってみたら地域おこしになるじゃんって。はじめに自分は何が得意で何をやったら3年後も儲けられるかなって考えたら、やっぱり人が集まる場づくりだったんですよね。それが地域おこしに結びつけられて、うまくハマった」
石村さんは高校を卒業後、東京の大学に進学。国際環境NGOで環境対策の活動をしながら、フェスにもよく参加したそう。アウトドアメーカーに勤めてからは、学生のころバーの店長をやっていたこともあって、友人たちとバーのお店づくりも経験した。
そういったさまざまな経験や知り合った人たちとのネットワークをフルに活かした展開を、今後も予定しているそうです。
それは、ゲストハウスとキャンプ場の運営。
ゲストハウスは、石村さんがいま拠点にしている家を改修して今年4月下旬にオープン。キャンプ場は、源流祭でも使った遊休化していた場所を一般社団法人里鳥が引き継ぐことになりました。
「手っ取り早く移住者が増えてくれたらいいけど、なかなかそうはいかない。じゃあどこでキャッチするかというと、まずはキャンプ場。グランピングとかも取り入れて、地域おこしに興味はないけどただアウトドアをしたい一般の層を呼び込む。街中にいるマルシェやフリーマーケットをやりたいという人を誘ってイベントもできると思う」
「で、そこから深く入ってきた人やコアな層は新しいゲストハウス『てご庵』で迎える。『てご』はこっちの方言で『手伝い』って意味。町のことを手伝ってもらったりしたらご飯を無料にしたりとか、そういう感じで地域おこしに関わってもらうんです」
ゲストハウスは町の人も使えるようなデザインにして、昔のような丁寧な暮らしを再現・発信することも考えているそう。
コンセプトは「From SATOYAMA to your lifestyle」。
これからの展開にあたり、新しい仲間を今回募集することになりました。
将来ゲストハウスを開くために修行したい人、カフェやパン屋さんで事業を興したい人、アートやデザインに関心がある人はとくに大歓迎だそう。
「ただ、雇われ気分でやるとか、自分ひとりだけでやるとかじゃなくて、ちゃんとまちをデザインするってことを考えられる人がいいなと。プレイヤーが必要なんですね」
「来てくれた人が面白いことをやってくれて、移住者を増やす一助になってほしい。いまはまだ受け皿が十分にできていないので、これからの1年間で一緒につくってほしいです」
数年後には石村さんがいなくても回る状態をつくり、石村さんは日野町だけじゃなく、他の地域の活性化活動も考えているそうです。
「ぶっちゃけ僕はここにずっといる気がないんです。どちらかというと、ここを抜け出せるくらい早く力をつけなきゃと思っていて」
「どう頑張っても日野町はなくなるんです。このままだと学校や病院もなくなって、機能しなくなる。僕はいまそれを見据えてやっていて。大山や米子、近隣の若手のプレイヤーたちとプロジェクトを組んだりして、模索してるんです。外から得たものを日野町に還元する役割をしたい」
もうちょっと先の未来は、文化圏が同じといわれる出雲から大山までの区域「雲伯地方」をつなげて、力を合わせることで何かできないかと考えている。
「実験ですね。こんなところでできたら、日本全国でも世界中どこでもできるって言えると思う。山陰に限らず、僕はこれからもいろんな地域や海外を訪れて、日本をよくするための手法を学びたいと思っています」
石村さんが思い描く一つひとつの未来は、もしかしたら数年後、数十年後のことかもしれません。
けど、この人ならきっと実現する。そんなふうに思わせてくれる方でした。
自分でつくる未来。ぜひ石村さんと一緒にはじめてみてください。
(2016/3/17 森田曜光)