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まちづくり。最近よく使われる言葉だ。ただ「つくる」とあるように、なんだか「まち」を上のほうから見てデザインする、プランニングするような関わり方のように思う人もいるかもしれない。
でもまちを良くしていくには、実際にそこに入って、まちの一員として関わっていくことからはじめるしかないと思う。プランニングするだけじゃなく、実際に動いていかないといけないから。

今回、募集するのも、まさに地域と世界をつなげていく人。
能登スタイルストアというWEBショップを日々運営して、地域にあるものを一つひとつお客さまに届けていく。それは地域を劇的に変えていくような華やかなものじゃないかもしれないけれども、気持ちをこめて商品を届けていくところから変化が生まれていくと思う。
金沢駅から特急で北に向かう。1時間ほどで能登半島の中心にある七尾に到着する。駅前にはゆっくりとした時間が流れている。港のほうへ御祓川沿いに歩いていくと、黒い立派な建物が見えてきた。旧十二銀行の建物で、この2階が職場になる。1階はギャラリーとレストランになっていて、まずは奈美さんと食事をしながらお話をすることになった。

「中学生くらいのとき、父がマリンシティ運動というのを始めたんですよ。まちにすごい元気がなかったんです。このままじゃいかんというので、当時、私の年より若いくらいのときの父たちがまちづくりの活動を始めて。そのころの七尾って、みんな七尾のこときらいで。なんでも七尾のせいにしてたから。」
「高校に行ったら、先生が『君たちのような七高生は、こんな七尾なんかにおらんと世界に向かって羽ばたけ!』って。世界に向かうことは別にいいことだと思うんですけど、『こんな七尾なんか』とか言うんですよ。こんな、ですよ。」

「横浜に行ったら、みんな横浜が好きなの!それがびっくりした。」
県民、というよりも横浜市民という意識が強いですからね。
「そう。市民の一人ひとりがまちのことを誇りに思って、『うちのまちはね』って言えることほど強いものはないって思って。ちょうどその頃ワークショップが日本に上陸してきて、わりと世田谷とか横浜が先進的に取り組んでいて。市民自身が自分たちでまちのことを考えていたんですよ。」
就職活動することになって、七尾に関わることができる仕事を探してみた。そして金沢の都市計画コンサルタントに就職することになった。はじめは道路や川の計画を担当することになる。
そして中心市街地活性化法というものができて、TMO(タウンマネジメントオーガナイゼーション)をつくり、七尾の計画をつくる担当になった。
「私の生まれ育ったまちをどう活性化させようという話なので、すごい考えるじゃないですか。ただ、しばらくしてプランナーだからプランは立てるけど、誰が実行するの?ってなったんです。」
プランナーの限界みたいなものを感じたんですね。
「そう。だから自分でやることにしたの。まちづくり会社の企画を立ててね。マリンシティ運動をやっていた世代の人たちが会社をつくって、わたしはスタッフになったのだけれど、計画立てたりは出来ても、店の経営も簿記もやったことないし。初めてのことばっかりで。川沿いにお店を作りましょうとか、川と市民の関係ができるようなイベントをやりましょうとか、そういうことはやってきたんです。」

「まちづくり会社として震災が起こったときにどう立ち回るべきか考えました。するとやらなきゃいけないことが次々でてくるんですよ。たとえば、能登の物を買って応援したいから、能登の特産品を送って、って言われて。」
はじめは七尾を中心に活動していたのが、能登半島全体に広がっていった。すると地域の問題点も明らかになっていく。
「地震で『いつか考えなんね』が『いま考えなんね』ってなって。そうすると私たちだけでは限界になる。他の人を動きやすくするのがまちづくり会社やということになっていったんです。」

若い人がいないということであれば、若い人を呼ぶために長期実践型インターンシップ「能登留学」というものもはじめた。
そんな中で生まれたのが能登スタイルストアだった。
ところがWEBショップをつくるのも運営するのもはじめて。そんなときに入社したのが田中さんだった。
「ぼくは七尾生まれなんですよ。高校まで七尾で過ごしました。卒業して働きながら専門学校に行くっていう制度が、岐阜県の大垣町にありまして。そこで3年間、情報処理の勉強をしてました。」

七尾に戻ってからもいくつか仕事をしたあと、2年ほどアルバイトをしたり自由な時間を過ごしていた。そのときに能登スタイルストアを立ち上げるので手伝ってほしい、という相談があった。
「インターネット関係のことはほとんどやったことがなくて。でも興味があったので行ってみたんです。面接のときに奈美さんとお会いして、はっきりと覚えてるのは『いつから来れる?』って言われたこと。もういつから来れるって話になるんだって。」
ここから田中さんの活躍がはじまる。はじめはデータ入力などの作業からはじめて、次々と業務改善をおこなっていった。
「知らないことを知るっていうのがすごく好きなので。そういう部分はすごく大きかったです。ありとあらゆることが真新しくて面白い。

「基本的には注文をいただいて、商品をお送りすることです。ここから発送することもあるし、直接生産者さんから発送してもらうこともあります。あとは発送が終わったらお客さんに連絡したり。配送トラブルや商品が届かないことがあった場合の対応などもやっています。」
田中さんは技術的なこと以外にも、お客さまへの対応が素晴らしいそうだ。実は和倉温泉のフロント係で働いていたこともある方。相手の話をしっかり聞いた上で提案しているそうだ。
「あとは商品紹介ページをつくったり、写真を撮ることも仕事です。文章はライターさんにお願いすることもあるし、自分で書くこともあります。」

それは田中さんがはじめたんですか?
「そうです。やりなさい、って言われたわけではないんですよ。面白そうだなと思って。いろいろなことをやっても自由ですし、今までダメって言われたことはないです。」
すると1階のギャラリーで販売しているお菓子を手に取って、こんな話をしてくれた。
「これは地域のパン屋さんで焼菓子をつくっているところがあるんです。そこのお菓子を買った人は、ファンになっちゃうんですよ。リピーターが多くて。さらにすごいのは、ここから車で2時間かかるのに、足を運んでいく人が多い。」
通販だけでなく、実際に訪れてしまうんですね。
「荷物が段ボールで送られるのですけど、段ボールに手書きでメッセージが書いてあるんですよ。裏に季節のこととか、お礼のメッセージが書いてある。商品の評価って、開けた瞬間に8割決まるっていわれてる。こういうことだっていいですよね。いかにして想像を超えるものを提供するかだと思うんです。」
同じような思いで商品を送ることができる人がいいですね。
「そうですね。自分でこんなことやってみたいなって楽しめる人がいいと思います。ぼくはパソコンが好きなのが武器だったけれど、なにか自分が好きだったり得意なことを使えれば、それが仕事につながると思うんです。」
その話を聞いた奈美さん。
「田中くんがやっている仕事を引き継いでほしいのはある程度あるけれども、田中くんのコピーを求めてるわけではないから。」
話を聞いたあとにまちを歩いてみた。通りには昔ながらの街並みが残っていた。和ろうそく屋さんに入ってみると、伝統的なろうそくのほかにも、今の暮らしにあわせたものも販売していた。伝統とともに、新しい取り組みにも積極的なようだ。もともと港町で、地域外から多くの人を受け入れている地域柄かもしれない。

「お祭りは、地域で生きる人たちのつながりを確認しあう大切な営み。まちのDNAを感じるの。」
と、奈美さん。暮らしていくにも魅力的なまちだと思う。

「会社としては、働いている人がこの地域に住んでいることを楽しんでいるこ と。やっていることを通してまちの人も元気になる、っていうような状態になればいいなと思ってて。それはまちづくり会社に限ったことではないのですけ ど。そのなかで御祓川があったからうちもやってみようと思ったとか、そういう沢山の物語が生まれていくようなまちになればいいなって思います。」(2012/10/29 ケンタup)