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「東京のほうが仕事はあるんだろうけどね。」三重県紀北町。この場所でデザインから企画までを仕事にしているディーグリーンの代表である東さんがぽっとつぶやいた言葉です。

地域に根ざしながら、デザインと企画の力で、新しい事業を立ち上げるために、新しいスタッフを募集しています。
東京から新幹線で名古屋まで1時間半。さらにそこから2時間少々。特急南紀号は名古屋駅を出発し、いろいろな町を抜け、気がついたら山間部を走っている。海が見えたらもう紀伊長島駅だ。

ディーグリーンの若いスタッフである立花さんが車で迎えにきてくれていた。
「まずはお昼ごはんを食べましょう。」
そう言って連れていってくれたのは、カウンター席のある居酒屋のようなお店。メニューには地場の魚料理などが並んでいる。しばらくすると代表の東さんも合流した。

東さん曰く、一緒にメニュー開発したものだそうだ。地域の良いものを発見して、デザインと企画の力で新しいものを提案することが仕事なんだそうだ。
事務所に向かう途中、港にかかる印象的な橋があったのでそこに連れていってもらう。町を見下ろすほどの高さからは、所狭しと立ち並ぶ民家が見える。それに港にゆっくりと入っていく船。ずっとぼんやりとしていたい場所だ。

「学校も行かないで、このあたりをよくブラブラしていましたよ。」
東さんは変わり者だったそうだ。話しているとそんなことはよくわからないけれども、小さい頃はあんまり学校へ行っていなかったそうだ。
「ひきこもりではなかった。学校に行かないで1人でぶらぶらしているような人間。実家が養殖関係の仕事をしていたので、そのお手伝いをしたり。なので、全然勉強をしていなかった。」

「普通はみんな高校出たら就職していたんですけど、もう少し勉強してみたいと思ったんです。それで20歳のときに大学に入りました。日本にあるアメリカの大学で、入学するのは簡単だったんですけど、卒業は難しかった。」
ろくに単語のつづりもわからない。動詞って何?という状況だった。そこから勉強をはじめて、海外に出てみたいと考えた。提携校がロンドンにあったものの、お金がない。進学資金をためるためにはじめた東京のアルバイトで、出会いがあった。
「もう15年以上前かな。まだインターネットの黎明期。知り合った人がIT系の仕事をはじめたので、手伝うことになったんですよ。そしたらパソコンを買えって言うのでMacを買ったんです。」

そのあとロンドンに行く。2年ほどいたら、もう少し勉強したくなった。けれども今さら親にも頼れない。けれども成績はよかったので奨学金がでることになった。
「それくらいなら生活できると思ったんです。そんなときにロンドンでインターネット関係の仕事をしている台湾人と知り合った。『パソコンで絵を描けるか?』って聞かれたから、できないけど『描ける』と言ってしまって。そこで働くことになりました。働きながら、インターネットのビジネスって面白いなあ、と思いました。」
まだごく初期のPhotoshopなどのソフトを使用して働きはじめる。卒業してからも働かないか、と誘われたものの、日本に帰国。ロンドン留学の前にアルバイトをしていた会社は、とても大きな規模になっていた。インターネットの可能性を実感した。
自分もそういう仕事をはじめようと就職活動もした。内定もでていたけれども、自分の中でしたい仕事じゃないなと思って全部断って、地元に戻って家の手伝いなどをしていたそうだ。
そんなときにホームページ制作会社と出会う。しばらく働いてみると「これは地元でもできるんじゃないか」と考えるようになった。
「独立したのが28歳くらい。地元にもホームページをつくる会社はあったんです。ただ、電気屋さんやパソコン屋さんがホームページをつくったりだとか、デザインができてなかった。それで開業したけれど、みんな絶対無理だって。でも僕の中ではニッチな商売になるだろうけど、確信はあって。」

次第に利益もでてくるようになる。スタッフもいれて法人化もする。すると気づくことが増えてきた。
「地域にはいろいろな課題がある。何か新しい事業をつくることができるのでは、と思ったんです。」
デザインなどの仕事を請けるのではなくて、自分たちで仕事をつくる、ということですか?
「そうです。いろいろなお付き合いを通して、地域の課題が見えてきました。外から見たら大きな仕事にはならないことかもしれませんよ。でもすでにある仕事を奪い合うだけじゃなくて、新しい仕事をつくることができるんじゃないかって。それからはデザインだけじゃなくて、自分たちで企画もするようになったんです。」
そんなふうにして生まれたのが「離乳食」のプロジェクト。
はじめは持ち込まれたアイデアだった。
「離乳食をつくるだけだったらそれほどおもしろくなくて、最初に企画書をもらったときに別におれがビジネスする必要ないなと思った。」
でも話を聞いてみると変わっていく。
魚を食べなくなったのは、小さいころから食べていないからじゃないか。ちゃんと地域の魚を食べる人がいれば、地元の魚を意識してもらえるんじゃないか。

それに地域に仕事が生まれることで、巡り巡って自分たちの仕事にもつながりそうだ。
「地元に学校がないから、外にでちゃう。でたら戻ってこない。漁師は減ってしまう。でも、この町の将来を考えると漁師が増えることは必要なことなんです。」
地域を間接的に支える、ということなんでしょうね。
「社会貢献に近いかもしれない。周りくどい仕事かもしれないけど、1次産業を一緒に盛り上げることができれば、何かしら返ってくるんじゃないか。」
都市やインターネットで生きるということは、来客数×コンバージョン率×客単価、というように数字で計算するような商売が成立する。でも地域に根ざすということは、共同体の中で生きていくということ。一人勝ちすることは持続可能なやり方じゃないし、そもそも計算できるものじゃない。
今回はまさに「地域で仕事をつくる」人の募集になる。商品企画から製造計画、さらに販売まで、すべてを見ることができると思う。地域に根ざしたメーカーになることは、これからの日本の中で、とても必要とされることだろうし、貴重な経験になるんじゃないか。
でも地域で生きるって、どういうことなのだろう?ほとんど都市で生きてきた僕にはいまいちわかっていないこともあるかもしれない。
駅まで迎えに来てくれた立花さんにも話を聞いてみる。彼は生まれは岩手釜石、その後は埼玉で育ったあと、紀伊長島にやってきた。
「大学生のころ、アメリカの大学に通っていて、観光について学んでいたんです。それで長期のインターンシップをしようと考えていたんです。小学校のときはずっと釜石に行って夏休みを過ごしていて、自分の中で心地いい体験だった。そういう港町のような場所を探していたら、この紀北町の民宿で募集していて。」

「これだったらいろんな人との関われるチャンスもあるし、ベンチャーというか小さい会社だったのでいろんなことを体験できるんじゃないかな」と思って応募して今に至るそうだ。
暮らしはどうだろう。
「家賃は安いですよ。今は事務所から歩いて30秒のところに住んでいます(笑)。9時出社なので8時半に起きても間に合ってしまう。定時もないので、朝ここまでやろう、ということが達成できたら早く帰ることもできます。ぼくはまだ時間がかかってしまうんですけど。」

こんな環境でじっくり生きていきたい人がいいだろうな。ただ、ゆっくり暮らすというよりも、センスと実行力でどんどん仕事を形にしていくことになると思う。そうやって地域に必要とされる存在になることで、居心地のいい場所になっていくんじゃないか。
最後に東さんに、なぜこの場所で働いているのか聞いてみる。
「単純にいい環境だから、っていうのもあります。仲間も多い。でも田舎で仕事をつくるなんて面白いじゃないですか。」
面白い?
「東京のほうが仕事はあるんだろうけどね。でも都会で働いていると、歯車のひとつのように感じてしまって。それに田舎だと、自分から仕事を起こしやすいのかな。好きなことができる。」

地域に仕事をもらう、から地域の仕事をつくる。そうやって顔の見える人たちに喜んでもらえたらうれしいでしょうね。(2013/9/6 ナカムラケンタup)