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「どんな場所に移住したいですか?」日本全国をまわって、いろいろな地域に出会う仕事なので、こんな質問をされることがよくある。

ただ一方で、ポテンシャルはものすごくあるのに、まだ若い人たちで行動している人が少なくて、「未来がはじまっていない」地域も気になる。なぜなら自分たちの行動が地域の未来と直結していくから。
鹿児島県鹿屋市はそういう場所だと思う。ものすごくポテンシャルがある、自然も素晴らしい、過去を振り返れば革新的なものを受け入れる土壌もある。けれども若い人が集まっているかというと、そういうわけではない。
この地域に移住して、地域おこし協力隊として働く人を募集します。仕事は地域の未来を開拓すること。
鹿児島空港に降り立つ。少し東京より暑い。車に乗り込んで大隅半島へ向かう。鹿児島市内のある薩摩半島に対して、大隅半島は錦江湾をはさんで対岸にある場所。桜島のある側と言えばわかりやすいだろうか。
車はすぐに錦江湾に突き当たり、そのまま海岸沿いを進んでいく。桜島の裏側をまわって峠を越えるともう鹿屋市だ。

まず到着したのは、旧高隈村だった高隈地区。少しだけひんやりした空気。
高隈山地のふもとに広がる地域で、ダム湖があり、地域の中心には鉤状の御神木を引き合うお祭り「鉤引き祭」が行われる中津神社がある。30年以上前からグリーンツーリズムを実践し、海外の人たちとの交流が続く先進的な地域でもある。そして何より印象的なのは、自然があふれているところ。
背後の高隈山がやさしく見守り、豊かな水を地域にもたらしてくれている。
訪れたのはカフェ「かぼちゃのたね」。ここで地域の方々にお話を聞くことにした。

「もともと名古屋のベットタウンに住んでいました。鹿屋と人口は変わらないんですけど、ショッピングセンターとかたくさんあって、交通の便もすごく良かった。」
なぜ移住してきたんですか?
「母がこちらの出身ということもありまして、盆正月には来ていたんです。そしたら中学生のときに住むことになって。高隈中学は柔道が盛んで、県大会で優勝して全国大会にいきました。ちょうど年代が同じ古賀稔彦とか小川直樹と一緒にMVPをもらって。」

「でも大学のときに肩を壊して柔道辞めたんです。父親が愛知県で土建業してましたので、そちらを継いでずっと社長業をしてました。」
「そんなとき二人目の子供が生まれて、生後一週間目に心臓の発作が起きて。ちょっと死に掛けたものですから。こりゃ子供のためにこんなところに住んでちゃいけないのかなという気持ちになった。そしたらこの高隈の自然を思い出したんですね。会社を全部譲って家族で来ました。今から8年前ですね。」
不安はなかったですか。
「すごくありました。でも仕事よりも、まず子供なんですよね。食べることだけだったらなんとかなるだろうと。」
「病院の先生に言われたのが、いつ発作が起きるかもわからないし、発作が起きたらいつ逝ってしまうかもわからないよって。この『かぼちゃのたね』というお店で昼は働きながら、夜は子供の顔を見ながらずっと生活がしたいなと思いました。」

「高隈というところは昔から住んでいる人たちがほとんどなんですよ。都会みたいにいろんな人が移ってきて集まっているわけじゃない。そういう集落ですから、移住するとなるとそういった地域の人たちとうまくとけあっていける方ですね。とにかく田舎は接することが多いですよ。ここに住めば色んな付き合いがありますから。」
聞けば、福崎さんには肩書きがたくさんある。NPOの代表、理事長、観光大使、地域おこしアドバイザー、そしてなんと唐揚げ日本一まで。
いろいろなことを引き受けていたら、自分の役割が増えていったそうだ。なるほど、たしかに付き合いが多い場所かもしれない。
そんな福崎さんを温かい眼差しで見つめながら、となりで話を聞いていたのが浜田さん。こちらのご出身の方。浜田さんは福崎さん以上に、たくさんの肩書きをもっている。
連絡協議会の会長から町内会長など、その数は12もあるそうだ。もともとは役所の職員だった。
浜田さんに地域のことを話していただいた。
「一番古い中津神社が325年くらい前にできて、お祭りがずっと続いている。笠野原台地の一角であり、そこに開拓者が入ってきて開拓していった歴史もあります。私は高校卒業して50年、ずっと地域の活動をしてきました。その中でいろいろな役割が生まれたんですね。」

ずっと地域のことをよく考えてきた方なんだと思う。
高隈のいいところを聞いてみる。
「そうですね。ご覧のように1237メートルという高隈山があるわけですから。1000メートルを超える峰が七つあるので、その恵みは相当なものがあると思っていますよ。水が豊富ですから、米はおいしいと評判です。」
たしかに水がおいしい。きれいな水がこんこんと湧き出る泉もある。

今度は福崎さんが次のように話してくれた。
「まずはみんなが何をやっているのか見てもらいたい。表面的でもいいから。そこから感じたことを一つずつ進めてほしい。具体的には浜田会長から話を聴くもよし、畑にいる人に話を聴くのもよし。それで感じ取ってもらえればいい。」
「あそこに行って話を聴いてくださいよ、こうしてくださいよ、って言われるより、自分の気持ちで動いてもらえた方が、素直に街の中に溶け込んでもらえるのかなって。」
大切なのは地域とのコミュニケーション。
そのときに素直であることは大切なんだろうな。言い換えれば、まずは自分が腹を割るというか。そうすれば、きっと相手も心を開いてくれる。
おふたりと話しているのは心地よかった。
福崎さんは移住組の大先輩になるだろうから心強いし、浜田さんの柔らかくて人懐っこい話し方は安心する。きっと地域と関わるときに、いろいろなサポートもしてくれると思う。
高隈を離れて、鹿屋市中心部に向かう。向かうのは鹿屋市の市民活動推進課である原田さんのお宅。
原田さんとの出会いはこれがはじめてではない。1度東京にいらしていただいたことはあって、今回で2度目になる。なんだか不思議な魅力のある人だ。
外はすっかり日が沈んで真っ暗になってしまった。街中なのに静かで星がきれいだった。
お酒を飲みはじめる前に、原田さんにお話を伺った。
まずはどういう人を求めているのか聞いてみる。
「やる気のある人っていうのが一番大事じゃないかな。最近は田舎に住みたい人も増えているだろうけど、現実問題としてかなりの覚悟がいると思うんですよね。」

「自分が何をしたいというよりも、一緒にできる人がいい。人とコミュニケーションがとれるようなね。今回の地域おこし協力隊っていうのはやっぱり一緒に地域の課題を解決していくのが役割だし。その中で地域を好きになってもらいたい。そうしたら自ずといろいろなことがわかるだろうし、そこから自分の強みを活かしていけばいい。」
まずはコミュニケーション、そこから役割が生まれるということ。原田さんにとって、地域と関わることは「ライフワーク」だそうだ。
どういうところが楽しいですか?
「一概には言えないんでしょうけど、そこに『人がいる』ということですよね。」
人がいる。
それがどんなものなのか知るには原田さんの若いころの話にヒントがあるような気がした。
ご出身は鹿屋だけれども、大学は東京に進学した。でもすぐに帰りたい気持ちでいっぱいだったそうだ。
「やっぱり人と人が触れ合う時間がないといけないね。ひとりでラーメンつくって食べるだけじゃだめ。」
鹿屋に帰ってきて、すぐに青年団に入った。さびしかった時間を埋めるように。
「今は青年団ってないんだけど。そのころは何かを一緒にやるとすれば青年団だったんですよ。3年したら全体の会長をしました。駅伝大会もしたよ。ワラビザってご存知ですか?」
ワラビザ??
「わらび座っていう劇団があるんだけど。結構有名な。鹿屋に呼んだんです。そしたらチケットが売れない。それでみんなで見に行ったんです。『どうだった?』『よかった、感動した』『じゃあ売ろう』って。今度は売れるわけ。自分が観てるから。自分が覚えた感動をみんなに伝えてあげる。だから券を売るんじゃなくて、感動を伝えてあげようと。」
「ここの文化会館って1214名入る文化会館なのね。売り切ったよ。1500ぐらい。立ち見が出た。だから若者ってのはやる気があれば、ほんとにやれるんだなってそのとき初めて感じた。」

「率直に伝わったと思う。」
逆に言うと自分はできたんだから、今の若い人にも出来ると。
「そこまで言いたいんだけど。やりたいことがあればできるから。そのためには地域の人を知るのが大切だと思う。」
うーん、やっぱり地域とのコミュニケーションが鍵。
楽しい飲み会となった。たくさんのごちそうを食べながら、お酒を飲み交わしながら、気持ちのいい時間が過ぎていく。
この地域には理解ある先達がいる。そして革新的なことも受け入れられる歴史を持っている。まあ、困ったら原田さんの家に行けばいいと思いますよ。飲みの誘いは断ったことがないそうだし。
翌日には鹿屋市の南、吾平(あいら)地区も訪れた。
この地域にも本当に理解のある人たちがいることを実感した。そして自然も美しい。神野という地区は桃源郷みたいだったし、宮内庁が管理する吾平山陵は、まるで伊勢神宮のように清々しい気持ちになる場所だった。

そうやって得られた信頼をもとに、「外の目線」も持ちながら、この地域をまた新しく「開拓」するような仕事だと思う。ここには未来につながるフロンティアがあります。(2013/12/3 up ナカムラケンタ)