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「やっぱりこの島は自分に合わなかったって離れていく人もいます。でも、心配しなくていいですよ。ダメなら出ていかざるをえないし、もしも住みづらくなったら、あなたが島に選ばれていないってこと。あなたが島を選ばなかったんじゃなくて、島があなたを選ばなかったんです。」「その人が島から必要なんですと言われるような暮らしができるか。なによりまず、そういう状況をつくってほしい。そうすれば、仕事も自然と生まれてくると思います。」

車で回れば一周20分もかからない。人口1,500人ほどの小さな島。ここは、琉球王国を最初に統一した尚円王(しょうえんおう)が生まれた場所としても有名。
サトウキビのほかにお米の栽培も盛んで、ハブがいないため海水浴やダイビングにも適している。だけど他の島のように観光地化されてはいないから、そこに流れている時間はなんとなく穏やかに感じられる。
エメラルド色の海のすぐそばから集落ははじまり、石垣に囲まれた瓦屋根の家々が続いている。そこには、島の人々が昔から続けてきた暮らしがある。

具体的には、合同会社「島の元気研究所」の一員になって、島米をつかった特産品の製造・販売や、古民家宿の運営、イベントの企画・実行など、島にもともと伝わる産業や文化を伝えていくことになる。
ここからここまであなたの仕事、という明確な割り振りがあるわけじゃない。まずは、ここに暮らすことから仕事ははじまっていくと思います。
伊是名島へは、那覇空港から高速バスに乗り2時間。美ら海水族館を通り過ぎ、終点の運天港という港から、直行フェリーに乗り継ぐ。
女の人が横たわったような形の島が、島の人に降神(うるがみ)様と呼ばれる島。その向かいに伊是名島が見える。
船を降りると、全身ブルーのつなぎを着た納戸(のと)さんが出迎えてくれた。

ないものねだりをするのではなく、この島にあるものを探していく。例えば、伊是名の風景。それから、それを支え維持してきた島民、そこに流れるコミュニティの文化。そういうものを残し伝えていくのが、納戸さんたちの仕事。
ひとつは、米粉と水だけでつくった「太陽麺」という麺を開発している。これは、お米を精米する過程で出た規格外米をなにか価値に変えることはできないか?というところからはじまった取り組み。
開発には2年もの時間がかかったけれど、今、島の新たな特産品になろうとしている。「太陽麺」をつかったメニューを出す「太陽食堂」もオープンし、そこは毎日地元のお客さんで賑わっている。
ほかにも、島で一番古い集落である伊是名集落の景観を生かした「しまあかり」というイベントの企画と運営、それから、古くなって取り壊されそうな古民家を改築して、そこで暮らすように過ごすことのできる宿泊プランを提案している。

港から車を走らせ「島の元気研究所」のオフィスへ向かう途中の道で、納戸さんがそんな話をしてくれた。
しばらく進むと、オレンジ色の「太陽食堂」ののぼりが見えてきた。
プレハブを改装してつくったという食堂には、大きなテラスもついていて、パラソルが出ている。日が落ちてきたら、外で食べるお客さんもいるそうだ。

「何でも自分たちでつくっちゃいますよ。内装も、メニューの木枠も、デザインも、全て自分たちでやりました。」
納戸さんのお父さんは宮大工だったから、昔は仕事を手伝っていたこともあったそうだ。だから大工仕事はお手の物。でも、デザインまで自分でしてしまうというのは驚いた。イラストレーターやフォトショップなどのソフトの操作も、独学で覚えたらしい。
「どうしてもこれ以上難しいというときは人に頼むけど、基本的にできることは全部やろうってスタンス。島の人だって、漁師やりながら大工仕事も得意だったり、みんな複数の仕事ができるよ。自分の技術をお互いに分け合いながら暮らしている。」
「島の暮らしって、わたしの仕事はここからここまでです、というのがないの。全てやらないといけない。デスクワークから大工仕事まで、全部が仕事になります。この島で生きて、僕たちと一緒に動くことが仕事になると思います。」

「僕は九州の福岡で生まれました。高校卒業して、アルバイトは腐るほどやってきた。僕、元祖フリーターなんです。」
福岡で働いたのち、東京に出る。当時は、いかに遊んで暮らすか、ということしか考えていなかった。だけど、東京は何をするにもお金がかかる。
「お金がかからない方へ、かからない方へ、と移動するうちに、南下して沖縄まできちゃった。」
伊是名にくる前は、ダイビングのメッカといわれる慶良間(けらま)諸島にいた。
「僕、ダイビングやるのよ。ダイビングインストラクターの資格も持っています。慶良間はお店ばっかりでうっとおしくて嫌になってしまって、のんびり自分ひとりでお店を開けるような場所を探していたら、ここを見つけて。移住したのは18年前のことです。」
伊是名にダイビングの店をひらき、最初の10年間は、淡々と海の仕事をしていた。そのなかで、どんどん海が悪くなっていくのを感じたそうだ。
拾っても拾ってもゴミが落ちている。それは観光客によるものではなかった。島の人の海への意識が低いのはどうしてだろう?と思った。

ちょうど時期から、島の若い人たちが、納戸さんのところへ相談にくるようなになった。
このままじゃ島に人がいなくなってしまう。納戸さんナイチャー(沖縄県外から来た人)でしょ、なにかいい方法ないね?
納戸さんは、毎週金曜日の夜にみんなで集まって、お酒を飲みながら島の人の話を聞くという会を開き始めた。これが、今の会社の前身だった。
「地域の空気が読めるまで、聞こえてくるまで、動いちゃいけないと思ってた。その言葉が聞こえてくるまで待っていたら、10年もかかっちゃったんだよね(笑)。」

「『太陽麺』のはじまりも同じです。今、島には15の稲作農家がいるのだけれど、全て後継者がない。もしも島米の価値を高められたら、自分たちの仕事に誇りも持てる。生き生き働くことで、この仕事に惹かれる若者も出てくるかもしれないよね。そうしたところからアイデアは生まれました。」

シンプルだから、洋食にも和食にも合いそうな味。小麦アレルギーの子どもを持つお母さんからも問い合わせが来るそうだ。
メニューの開発と調理は、全てここで働く島の女性たちが担当している。子育て中の方は、食堂にお子さんを連れてきて働いていた。
「嬉しいのは、島の人が沢山食べにきてくれること。仕入れたものじゃなく島米を使っているというのは、やっぱり誇らしいよね。」

「おかげさまで、古民家の宿泊施設も順調で、7〜9月は予約がいっぱいなんです。午前のフェリーでお客さんが帰って、午後の便でお客さんが来るような感じ。みなさん、リピーターの方ばかりですね。今、3棟目をつくっていて、もうすぐ4棟目の改修がスタートします。」
島の外に活動を伝えていく機会も、これからどんどんつくっていきたい。本島や本土への催事などに積極的に参加したり、那覇にアンテナショップをつくる計画もあるそうだ。
太陽食堂を出て、すこしだけ車で島を案内していただいた。
海の青さを全て覗き込めるような高さの展望台にのぼったあと、納戸さんが、よく訪ねるという島のおばあの家へつれていってくれた。
きれいに整備された庭の奥に広い縁側があり、そこにおばあさんが座っている。縁側には、急須とともに、お菓子や果物などのお茶請けが並んでいた。

「ここに毎朝、自分のお茶を飲む前に、お客さんのお茶を用意しているの。誰が来るという約束があるわけではないのに。こういうの、この島の言葉で『イヒャジューテー』と言うんだ。島に代々伝わる、ホスピタリティあふれる島人の気質を表す言葉。」
どうぞどうぞ飲んでください、とおばあさんにすすめられて、お茶とお菓子をいただいた。
「こういう、島のおばあとの世間話も仕事のうちでね。完全に信頼してもらっているんだよね。地域を動かすのは、情感。あの人が好き嫌いというセンチメンタルが全てなんだ。だから、部屋のなかでパソコンのキーボード打ってるだけじゃ駄目。体動かして一緒に汗かかなきゃ。」
「だから、仕事は草取りからはじまるよ。多分、思い描いていたような働くってこととは全く違うことからはじまると思う。だけど、そういうところから情感が生まれる。あなたは信頼できるって思ってもらえる。そこからしかはじまらないんだよ。」

一緒に働く人として、どんな人に来てほしいですか?
「一番は、学ぼうという気持ちがある人。自分の可能性は無限にあるなんて思っている人は、いらない。まだまだ足りないから学ぼうって気持ちがあれば、いくらでも学べるし伸びていくと思う。」
「でも、それは僕の言うことを鵜呑みにしてほしいわけじゃない。自分で反芻して自分の言葉にしてほしい。議論は大好きなので、なにか気付いたことがあればどんどん言ってくれるとありがたい。」
島のためにこんなことができる、という具体的なものがなくたっていいんだと思う。
まずは一緒にこの島で生きてみる。朝昼晩、近所の人と挨拶してみる。一緒に草取りをしてみる。役割は、そこから自然に出来てくるのだと思います。

(2014/5/12 笠原ナナコup)