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顔の見えるコミュニティに入ったときに第1印象は大切だ。そこから溶け込んでいくのも時間がかかる。今回紹介するのは、3年くらいはほとんど相手にしてもらえなかった人のお話です。あまりにも相手にされなくて歯が抜けてしまったほど。それが今ではすっかり地域になくてはならない存在になった。

その人の右腕になって、地域の人たちとコミュニケーションしながら働く人を募集します。
どうやって地域の人たちの信頼を勝ち得たのか。そして事業として持続可能なものをつくったのか。そこにはいろんなヒントがつまっていました。
福岡空港からレンタカーを借りて移動する。1時間ほど車を走らせると、里山の広がる「正助ふるさと村」に到着した。車を降りると、空気がおいしい。
親孝行で知られ、殿様から姓を戴いた”武丸正介”という農民を記念したのが名前の由来。

敷地の中にはお土産物屋さんや地域の食材をつかったレストランもあって、平日だというのににぎわっていた。ちょうど桜の見頃は過ぎたあたりで、すっかり春の陽気。寝転がって昼寝したら気持ちよさそうだ。
事務所のある建物の中に入って、統括部長の三浦さんとお会いした。鋭い眼光。きっといろいろな経験をされてきたのだろうな、と思わせる雰囲気。
「ぼくを助けてくれる人を募集したいんです。もうやることがたくさんあるので。お願いしたいことは、地域をまわっておばちゃんたちと話して、できた野菜や手づくりのものを集めて売ることです。」

ストレスで歯が抜ける…
なかなか聞いたことがないし、想像もできない。でも今はとても充実しているように見える。
一体何があったのか。すると子どものころの話になった。
「ぼくはここが地元なんですよ。合併前は別の町だったんですけど。地元の小中いって、高校いって、美容専門学校いって。自慢じゃないけど美容学校で成績は1番だったんです。」
卒業してから六本木で美容修行し、30歳で宗像にもどって45歳まで美容室を経営していたそうだ。
「けど、肘を両方やっちゃったんですよ。もう使い過ぎで、今でもしびれるんです。それでどうしようかなって考えていたときに、今の仕事を知ったんです。」

だから何かをやろうと思っても、現場は自分ひとりしかやる人間はいなかった。それどころか猛反対された。
「自分しかやらないから、1年間は日が昇る前から夜遅くまで働いていた。そんな生活を続けていたら歯がぬけちゃった。」
なぜ辞めなかったんですか?
「もうなんか負けん気が強いんです。1番じゃないと大っ嫌いで。」
とはいえ、時間をかけたからってうまくいくものじゃない。勝機はあったのですか?
「ありました。ぼくは商売人だから。いろいろな企画を考えて、すぐやってみることを大切にしているんです。」
すぐやってみる。
「そうです。だから地域をまわりながら『いいな!』という物を見つけたらすぐ行動に移す。」

「はい。すぐやってみることが大切なので。入社当時、デジカメが必要だったので買ってから経理に『はい、金くれ』って言ったら、みんな青ざめましたもんね。課長印、部長印が必要なわけです。でもそんなもん待ってられん。」
たとえば形ばかりのお祭りを一人で企画しなおして走り回ったことも。思いついたらはじめてみる。
当時、三浦さんを引き入れた矢原常務取締役も行動的。あるとき宗像の沖合にある大島の名産である甘夏をつかったソフトクリームを販売しないか?という相談をもらった。はじめの設備投資は百数十万円。だれもやろうとしなかったが、話し合って販売することを決断する。
「でもここで大島の甘夏ソフトクリームを売るのはおかしいでしょ。単に持ってきただけになってしまう。だからこの場所で収穫されるブルーベリーと生乳のソフトクリームを自分たちでつくったんです。しかも10日間(大島甘夏は開発1年)で開発した。そしたらゴールデンウィークには1日に1800個売れて。ものすごい売り上げだったから、妬みもすごくいっぱい来たんですけど(笑)」
思いついては、どんどん実行する。三浦さんはいろいろなことを研究しているので、面白いアイデアも多い。気になるテレビは録画。興味のある場所があれば休日に訪問。
仕事が生きることと重なっている。休んでいるときもアンテナを張り巡らしているから、商売のタネを見つけるとすぐに反応してしまう。日頃から情報収集し、それを編集して、すぐ実行してしまう。
そうやって思いついたことを形にしていくことは、とても魅力的な仕事だと思うけれども、ほかの古いスタッフたちはみんなついていけなくなったそうだ。今では残っているのは2人だけ。あとはすべて入れ替わってしまった。
「いいスタッフが入ってくれましたよ。今は5人の課長がいて助かっています。思いついたらぱっとやるんですよ。そうして10やって1成功すればいい。だから失敗もありましたよ。」
たとえば、広い土地があったのでオートキャンプ場をつくろうとしたら、地域の大反対を受けた。所有していた土地だったので深く考えずに整地までしてしまったものの、計画はお蔵入り。
どんなことにも地域の理解が大切になってくる。どうやって理解を得るのだろう。
「はじめは相手にされなかったけれども、地域をまわり続けているとだんだん打ち解けてくる。家にあげられたり、玄関先でもお茶や漬け物が出てくる。コーヒーとかお茶で、おなかがたぷんたぷんになる。」

「都会っぽいアプローチは嫌われるね。」
都会っぽい?
「おすましな感じ。『私、仕事できるのよ』って空気を出してる人いるじゃないですか。それってあまりよろしくない。どっちかっつーと、夕焼け見ながら田んぼの脇で、ばあちゃんの話をずーっと聞いちゃらないかんくらいの。素朴で元気なのがいい。」
そうやって一人ひとりの話を聞いていたら、今では「あんたがすんなら協力するばい」と言われるようになったそうだ。
「ただね、仕事は田舎感覚じゃないほうがいい。スローフードのバイキングをやっていますけど、スローの陰にはハリーな人がいる。だから、これから働いてもらう人も地域の人にかわいがられるようなスローな部分と、フットワークの軽いハリーな両面をお願いしたいです。」

「そうそう。ずっと同じところにいるんじゃなくて、畑や田んぼなどをまわるんでしょうね。足腰が悪くて収穫できないおばちゃんの野菜を代わりに販売したり。何軒かまわったら、すぐに車が野菜だらけになりますよ。人が好き、田舎が好き、話が好きだったらいいでしょうね。」
野菜の売り先もいくつかあるという。そして今回右腕として働いてもらう方が希望すれば、事業として成立させて、代表取締役として法人化していきたいそうだ。
新しいアイデアも考えている。たとえば珍しい野菜なども一緒に考えて育ててもらいたい。自分たちで小売りもしているので、どんな野菜が売れるのかわかっている。「こんな野菜を育ててみては?」と提案してもいいかもしれない。
さらに信頼が得られれば、いろんなことをプロジェクト化することもできると思う。ここでは10やったら9は失敗していいのだから。やらないよりはやったほうがいい。
すべてのはじまりが、地域でのコミュニケーションとなる。
「ぼくもはじめは相手にされなくて大変だったけど、今では受け入れられているし、売れない野菜をお金に換えるのだからすごい感謝されますよ。それに世話役の”よしたけいっちゃん”っていう元気おばちゃんがいるんですよ。もともとはぼくの上司でものすごく仲悪かったんですけど(笑)」
少し車で移動して、”よしたけいっちゃん”こと吉武伊都子さんに会いにコミュニティセンターを訪れた。第1印象は、ちゃんと思ったことは言ってくれる方。

今は漬け物部会を立ち上げたり、地域をまわって野菜を販売する「こころ会」の代表をしている。
まずは三浦さんがどんな人が聞いてみる。
「なんでも頼りになる。頼みの綱よ。はじめは同僚だったんだけど、いつも喧嘩してましたね。」
「わたしは正助ふるさと村ができる前から働いていました。そやけどポンと来られて、それまでのことをちゃらにしてしまいよる。戸惑うわけですよ。それで辞めてしまったけれど、そのあとは親密になった。最初はね、ある程度摩擦はあると思う。摩擦からいいものができたらいいわけですよ。」

「そうそう。三浦さんは時間がかかったけれど、これから入る人はそこまでのことはないけどね。」
どんな仕事になるんですか?
「常日頃から顔出したり通り道で話しかけたり。病気だったら連絡したり。野菜がたくさん採れる時期はまわらなくてはいけない。」

「一概には言えないね。その方のいい面があればそこを引き出すやり方をこっちも考えないといけないし、悪いところばかり見るわけにはいかないし。かといって悪いところがあれば注意もしなきゃいけないし。」
「あと、ここは近所付き合いがとても大事。今日も玄関にフキが置いてあって。誰が置いたかはわからないけれども、だいぶ経ってから『あそこに置いたのあなた?』って聞いたら『そうよ』って言うような感じ。お互いさまだから。」
地域は市街化調整区域になっていて、今では新しく家を建てることもできない。仕事もないから若い人はどんどん出ていってしまう。
伊都子さんは「次の代につながる土台づくり」がしたいと考えているそうだ。

でもこの地域は動きはじめている。豊かな自然もある。三浦さんとはまた違った視点をもっている人が必要だと思います。
(2014/05/16 ナカムラケンタ)