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宮城のいま

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約一年ぶりに宮城を訪ねました。

仙台駅から青葉通りを歩くと、大学生たちの楽しげな姿、颯爽と歩くサラリーマンに散歩をする人。まちは日常を取り戻したように見える。

1 けれど、みやぎ連携復興センターの高橋さんはこう話します。

「バイクに乗って20分ほど行くと、沿岸部は何もない風景に変わるんです。電柱は倒れ、ガードレールも曲がったまま。南下してもその状態が続きます。3年経ってこの状態か… 表す言葉が見つからなかったですね。」

同コーディネーターの小西さん。

「わたしにとって沿岸部は、180度違う地域になっています。閉鎖的で人を受け入れようとしなかった地域が、いまは『こんなにやわらかい人たちだったんだ』。報道でもハード面が取り上げられやすい復興ですが、一番変わってきているのは中の“人”だと思います。本当に全然違うんですよ?(笑)。外からも大勢人が集まり、みんなで一つのまちをつくろうとしています。」

色々な顔を持つ宮城の“いま”に取り組む人たちに出会いました。

2 復興、そして今後の東北のまちづくりに向けて。中間支援を行うみやぎ連携復興センター。ともに活動する仲間を募集します。

東京から一時間半。新幹線はあっという間に仙台へ到着した。

仙台駅から徒歩15分ほどのところに、みやぎ連携復興センターはあります。

立ち上げは、東日本大震災からちょうど一週間後。政府や県、NPO、自衛隊と全国から集まったボランティア。さまざまな人をつなぐハブとして機能しました。

2012年からは「被災者が主役の復興」をテーマに活動しています。

現地で活動する団体同士を結びつける。被災地に入り、コミュニティづくりに取り組む「復興応援隊」をサポートする。

つなぐことで現地の活動をより促す“中間支援”を行っています。

センターでは、出身も経歴もさまざまな方が活躍していました。

最初に話を聞いたのは小西さん。

3 宮城との出会いは、前職にありました。

「全国に展開する子ども向け学習教室で管轄サポートをしていたんです。配属先の宮城県で震災を体験しました。担当地区の県北沿岸部に関わり続けたいと思い、2013年の10月にセンターへ転職をしました。」

主な仕事は広報。いまの課題はより多くの人に知ってもらうことだという。

「帰省したときに、日本のなかでも温度差があるんだな、と実感したんです。福岡のデパートに行くと、すみっこに申し訳程度に『復興支援しています』と書かれているぐらいでした。これじゃあ… と思ったんです。」

実は、宮城県内でも同じことが言えるそうだ。

「仙台の中心にあたる青葉区も被災しましたが、いまではほとんど復旧しました。わたしたちもそうですが、仙台は以前の生活にだいぶ戻ったと思うんです。でも若林区の沿岸部など、ちょっと行けばはまだまだ。宮城県にも色々な状況があります。」

ときを同じくしてセンターにやってきたのが、高橋さん。

「岩手出身ということもあり、どうしても復興に関わりたかったんです。自動車メーカーで技術開発の仕事をしているんですが、会社と協議して現在は休職中です。期間は2年間ですが、長く関わっていける道を考えています。」

既婚者でもある高橋さんは、単身赴任中。

4 主な仕事は、県内13地区で約70名が活躍する復興応援隊のサポート。

総務省が所轄する復興応援隊は、被災地版地域おこし協力隊とも言える。

その活動内容は、地域によってさまざま。石巻市では仮設住宅におけるコミュニティづくり、南三陸町では観光を盛り上げるアプローチを行っている。

高橋さんは週に2日程度、地域を訪ねて会議に出席。情報収集を行い、現在抱えている課題をセンター内で共有。解決に向けたプロセスを組み、必要に応じて、情報提供や研修を開いていく。

5 活動をはじめて半年。いまはどんなことを思っているのだろう。

「どこまで地域に踏み込んでよいかは、日々考えています。現地の会議に参加すると、『こうした方がよさそうだな』と思う場面もあります。けれど、そこで僕らが先回りするのは違うのかな。」

「地域の人の気づきを支えることが、大切だと思います。そして、現地から相談の声が上がったときに、気軽に頼れる存在でありたいです。」

これから入ってくる人も、日ごろからの関係づくりが大切になるという。

そこで話をうかがったのは、着任して1年が経つ宮城出身の中沢さん。

6 福島との県境に位置する丸森町の話を聞かせてもらう。

「地域のイベントには、なるべく顔を出したいですね。去年は、凍み大根の一種である“へそ大根”をつくるワークショップに参加しました。収穫から加工まで一連の工程をやったんです。一度参加すると300gのへそ大根がもらえるんですけどね。関係をつくるためというか… 楽しみたいから参加しています(笑)。」

この週末も丸森町で、復興応援隊や住民と一緒にヒマワリの種まきがある。

いきなり頼りにされるのは難しいのでは、と話す。

「時間はかかりますが、まずは通うことから。僕も一年が経ち、ようやく関係性が築けてきたように感じます。日頃の付き合いがあると、ふとしたときに相談もされるものです。」

7 こんなことがあった。

「石巻市の北上地区には、津波により住めなくなった区域があります。市が買い取りを計画して問題となったのが土地の所有権です。地権者を調べると、明治時代にまでさかのぼることがわかったんですよ。そこで復興応援隊から相談を受けました。司法書士や弁護士の方を紹介することで、勉強会開催の手伝いをしたんです。」

ところで中沢さんは、どうしてセンターにやってきたのだろう。

前職は東京の印刷会社。社会人1年目の3月に震災を経験した。
「新幹線が開通した4月に戻ると、子どもの頃海水浴に行った荒浜は、ガソリンスタンドもコンビニも流されて、松林も抜けて散乱している。何もかもが変わった光景に囲まれたときに『帰ろう』と思ったんです。」

行動に移したのは、1年前のこと。NPO法人ETIC. が運営する震災復興リーダー支援プロジェクト「右腕派遣プログラム」をきっかけにセンターへとやってきた。

「すぐに動きたい気持ちもありましたが、3年間は勤めて力をつけようと決めていたんです。」

ここまで話をうかがった小西さん、高橋さん、そして中沢さん。3人とも、センターにやってきたのはここ一年のこと。

「震災直後は多くの人がボランティアに参加しましたよね。動きやすかったとも思います。時間が経ち、周りからは『どうしていまさら?』と言われることもありましたよ。自分でも迷いがなかったわけではありません。でも、いまこそ、東北は人が必要になる時期だと思います。」

8 中間支援という関わり方も後押しした。

「新しい取組みだと思ったんですね。戻るなら、長く関わるだろうと思っていました。それならば、じっくりと仕組みづくりに取り組みたかったんです。」

3人には、もう一つの共通点が。自分のキャリアを活かせると考えた点だ。

小西さんの前職は教室の管轄サポート。教室の先生に働きかけることで、その先にいる子どもたちを支える経験は中間支援に通じると思った。

印刷会社の営業をしてきた中沢さんは、こう話す。

「最近実感したことがあります。日ごろの関係が仕事につながる点は、営業も地域づくりも同じなんです。僕らの仕事は“つなぐプロ”。相談を受けたときに、相手の求めるものを差し出せる。何気ない一言からニーズを拾いあげて提案することが役割と思います。」

9 さらに今後は、各々のスペシャリティを高めていきたいという。

「ジェネラリストとして、“つなぐ”だけでは力不足も感じます。今年の目標は、一人ひとりがスペシャリティを持つことです。地域の広報がうまくいかなければ、小西さんに聞こう。高橋さんには、企業連携を有機的に進めてもらおう。一人ひとりの力をつけることが、センター全体の力になっていきます。」

復興やまちづくりは、思いありきで語られる仕事だったように感じます。

もちろん、思いがあって活動ははじまるもの。

けれど人の役に立ち、活動を継続していくには力も求められます。

「東北に仕事として関わる。もっと色々な人がいていいと思うんです。出身者も、ボランティアで関わった人も、記事を読んだ人も。いままでの経験も活かせる場なので、気になったら、飛び込んでみてほしいです。」

最後に、事務局長の石塚さんに話をうかがいました。

2003年に中越地震を経験した新潟県の出身。

復興、そしてまちづくりに取り組む「中越防災安全推進機構復興デザインセンター」から出向しています。

10 センターの発足から4年目を迎える今年。活動は次のステップを見すえる時期に来ていました。

「復興支援に明確な終わりはないと思います。」

「いまは、復興後の地域づくりにも関わりたいと考えています。今後はここをベースキャンプに、長く東北のまちづくりに関わる人をどんどん輩出していきたいんです。センターの顔となる人もいれば、スピンアウトして新しい種をまく人も出てくるでしょう。」

将来的には、行政からの財源が縮小することも考えられる。

活動を続けていくため、みやぎ連携復興センターで独立した法人格の取得も検討中。組織の形も変わりつつある。

その兆しとして、コンサルティング会社やIT企業との協働といった兆しも生まれつつあります。

いまはないものを、仲間とともにつくりあげていく場だと思います。

11 この20年間にも、阪神淡路、新潟そして東北と大きな地震が起きました。

災害を機に、ボランティア・NPO活動の普及。市民一人ひとりができることを探したり。日本の社会は大きく動いてきたように思います。

最後に石塚さんは、「いま宮城だからできること」を話してくれました。

「じょじょに進みつつあった過疎が、震災で一気に顕在化しました。震災は一つの契機とも言えます。もともと東北の人は、外に開いて伝えることが決して得意ではなかったと思います。いまは、至るところで化学反応が起きています。外から来たボランティアや応援隊、起業した人。そして誰よりも地域の人。これだけたくさんの人が、一緒にまちをつくる機会です。きっと面白いし、ここでの経験は日本のモデルにもなると思います。」

(2014/6/20 大越はじめ)