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ゆっくりと定置網をたぐりよせていく。するとたくさんの魚影があらわれた。
そんな漁師の募集です。場所は多くの移住者が集まる島根県の沖合の島、海士町(あまちょう)。
米子空港の近くにある境港からジェット船で2時間ほど。
海士町は入江が入り組む豊かな表情を見せる場所。もともとは火山だった島が陥没し、カルデラを取り囲むように島々が連なる。海士町はそんな島の一つ。海の幸はもちろん、水が豊富で農業も盛んだそうだ。そして多くの移住者が集まる島でもある。

すぐに定置網漁をしている飯古建設に到着した。
「なぜ建設会社が漁をしているのか」という疑問をまずは確認しようと思っていた。
中は典型的な建設会社のオフィス。社長室で代表の田仲さんに話を聞いた。
「公共事業と言うのは、やはり第一次産業に支えられていたということですよね。だから第一次産業がなければ公共事業もなかったんじゃないかと。」

「なんとかこの地域に役立つことができないかな、という思いで、定置網を引き受けました。今年で19年目になります。海に囲まれた島で、漁業がなくなってしまったら島はなくなってしまう、という思いで今も続けているんです。おかげさまで若い漁師も増えました。」
何人いらっしゃるんですか。
「7人が社員で、3人がパートです。総勢10名でやっている。」
それだけの人たちが食べていくためには売上げも必要。赤字体質だった定置網漁に、何か秘策はあったのだろうか。
「秘策っていうのは全くないですよね。だから、あのー、うーん。まったくのド素人がやって、やれるもんでもないし、じゃあ、どういう秘策があるんかっていってもそういうものもない‥ やはり、なんとかせにゃいけんという思いが強かった。」
田仲さんは飯古建設の2代目。話していると、ワンマン社長というよりも、やわらかく真面目な方という印象。
1代目とは血縁関係はなく、はじめは現場の仕事からスタートした。20代のうちに役員になり、33歳で共同代表、40歳で前社長が第一線を退いた。
相変わらず1代目は会社のオーナーだけれども、口を出すこともなく暖かく見守ってくれているそうだ。
「普通は社長になってもオーナーの顔を見て事業をするものなのでしょうけど、自分の思うようにやってきた。それをさせてくれたのがやはり、前社長のすごいところかなと思ってますけど。」
これから定置網事業はどうしていきたいのですか?
「魚価は下がっています。30~40年前の1/5の値段。一晩のイカ釣りで100~200万稼ぐ人もいた。今は水揚げも減っているから、年間で500万円稼ぐ人が何人か。1000万円稼ぐのは1人か2人。だからもう少し高く買ってもらえるようにならないと。」
「いろんな売り方があると思うんです。ネット販売とか、直接料理屋さんに卸すとか。今後はいろいろな方法をみんなと相談しながら考えていきたい。」
安く買い叩かれないためには、売り先が複数あるのは大切だし、ブランドをつくっていくことも必要なこと。新しく入る人は、そういうところも提案できるといいかもしれない。
そのあと定置網事業の社員である笹鹿さんに連れられて、島内をドライブすることになった。
車内で田仲社長の話になる。
「漁業がだめになっても『社員とその家族は絶対に守る』って言っているんですよ。」

「社長室はあるけれども、時間があれば現場をまわっていますよ。」
はじめは「建設会社が定置網漁?」という疑問があったし、「厳しい事業なのになぜ引き受ける?」とも思っていたけれども、目先の利益にとらわれずに、もっと広い視野で仕事のことを考えている方なんだな、と実感した。
車は漁船のある崎(さき)という集落に向かう。すれ違う車に挨拶をするのが印象的だった。大工さんに、みかん農家さん。みんな知り合いだそうだ。
車内でいろいろな話を聞く。
笹鹿さんは2年前まで学校の先生をされていた方なんだそうだ。ニュージーランドの日本人学校やドイツのインターナショナルスクールで教鞭をとることもあった。その後は国際バカロレアプログラムを実践する静岡の学校で9年間働くというユニークな経歴の持ち主。
なぜ辞めることになってしまったのか。
「9年くらいして、だんだん新しいことに挑戦したいなって気分になってきたんですよ。」

「はじめは海士町の島前(どうぜん)高校の話を聞いたんです。少子化なのにどんどん生徒数増やしているらしい。ただ、教師をやるなら静岡の高校で満足してたので、まあなんとなく話半分で聞いていたんですけど、そういうところから海士町のホームページを見るようになって。」
そこで見つけたのが「厳しいけど、楽しいよ。」という漁師募集という記事。
「問い合わせてみると単に従業員募集ではなく、島と島の漁業を守り、次世代につなげていきたいという話をされて、その思いに共感したんです。」
海士町を訪ねてみたところ、すぐに移住してみようと思ったそうだ。ところが先生というのは気軽に転職できるものではない。そのときには4月から高校3年生の担任になることが決まっていたので、まずは家族だけが移住した。1年だけの逆単身赴任のような状態ののち、卒業生を送り出して笹鹿さんも海士町へ。
「実家が米子なんですけど、相談したら『人生一度きりだし、いいんじゃない』と後押ししてくれました。」
いいご両親。でも不安とかなかったですか。畑違いですし。
すると深く考えて、「あんまり、そこは深く考えてなかった。」とのこと。
「やってみないとわからないですし。弟と妹にも親とは別に相談したら、『まあ人生一度きりだし、やってみれば?』とまったく同じこと言われて。」
やはり「人生は一度きり」。
「建設会社の定置網ってことで給料制になっているし、生活の保障はしっかりしている。ほかの人たちももともと漁師だった人は少ないんです。」
実際に働いてみてどうですか。
「そうですね。教員のときも楽しかったし、今も楽しいです。」

「やっぱり朝早いですよね。冬はまだ星が瞬いています。季節を感じますね。」
4時起きですもんね。
「真イカの時期だともうちょっと早い。イカは鮮度が命なので、できるだけ早く出荷したいんです。朝早く穫って、午前中の便に出せばその日の競りに間に合うんですよ。」
「あと冬だと真っ暗闇の中、小さなスポットライトを頼りに網の中に入っていくので、それはちょっと緊張します。」
船酔いは大丈夫ですか。
「ぼくは大丈夫でしたね。酔う人でも一ヶ月くらいで慣れると思います。漁場も港から1~2キロに2つ、8キロに1つと、すぐ近くなので。冬の寒さも夏の暑さも数時間の辛抱です。でも春と秋はいい季節ですよ。」
仕事は何時に終わるんですか?
「5時半出航のときは、12時半には仕事が終わります。まあ魚が多かったり網のメンテナンスのときは残業もあったりするんですけど、基本的には午後は自由に使える。」

職場などを案内してもらったあとに、笹鹿さんたちと夕飯をご一緒することになった。
その前に立ち寄ったのが鶏を育てている方のところ。使い古しの紙パックを渡して新鮮な卵を受け取る。毎朝の納豆ごはんには欠かせないものらしい。

そのあとは家族を迎えに行く。家は町営住宅。薪ストーブもあって、十分な広さもある。これはいい。
保育園にいくと、子どもがたくさんいてびっくりした。すぐに人懐こくぼくに声を掛けてくる。みんなすくすくと元気に育っているように思う。島の環境がそうさせるのかもしれない。
笹鹿さんとその家族、それにサミーラさんとともに食事をした。島の魚はとてもおいしかった。
そのあとは宿で就寝。翌朝は漁に同行する。
まだ星が瞬いている時間。車で港に移動している間にだんだんと空が白んできた。

ミーティングのあとに2つの船に分かれて港を出た。まずは沖合2キロにある定置網へ向かう。気持ちのいい潮風が身体を包み込む。これが冬だったら寒いのだろうけど。

朝日の光を全身に浴びながら、網を巻き上げていく作業がはじまった。全員が連動しながら、機械をつかって巻き上げていく。
途中でトイレに行きたくなったので相談すると、「反対側でいいよ」とのこと。
海の上だから緊張感を持って仕事はしているのだろうけど、思いのほか海の男たちはやさしかった。若いスタッフも怒鳴られることなく、アドバイスを受けながら慎重に網を巻き上げている。

魚を追い込むと、大きな網をクレーンで吊って魚を引き上げる。
ほっとひと安心するのもつかの間、定置網を元に戻して、もう一つある定置網に向かう。
ぼくは別の船に乗り換えて港にもどった。どんどん小さくなっていく船を見ていると、とても大切なもののように感じた。
贅沢はできないかもしれない。きつい仕事かもしれない。けれども、ここにはちゃんとつながっている暮らしも仕事もありました。
気になったらぜひ訪ねてみてください。
(2014/08/04 ナカムラケンタ)