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わがら色川

※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。

和歌山県・那智勝浦町の色川地区を訪ねました。

東京から高速バスで約半日、電車でも7時間ほど。大阪から車で5時間。取材中には「日本一不便なところ」という声も聞こえてきました。

1 そんな色川地区は、住民約400人のうち170人が移住者です。

けれど突然移住が増えたわけではありません。

はじまりは39年前。

5組の家族が、有機農業に取り組みたいと訪れました。その後は、毎年2世帯ほどが移り住み、いまでは半数近くが移住者になりました。

時間をかけて、移住者と地の人が地域をつくってきました。

全国の先進事例地でもある色川はいま、次の段階に差しかかっています。

「移住者を増やすだけでは、地域を受け継ぐことにつながらないのでは?」

これまでの歩みを敬いつつ、地域のみなさんと一緒にこれからを模索していく。そんな地域サポート人を募集します。

2 色川地区のある那智勝浦町は、紀伊半島のはしっこに位置します。

名古屋からは特急南紀に揺られること4時間。

松阪を越えて、尾鷲を越えて、熊野を越えて。山あいを、そしてきれいな砂浜を眺めて。電車は終点紀伊勝浦駅へと到着した。

駅を降りると、NPO法人地域再生ネットワークの大西俊介さんが迎えてくれた。

3 よく日に焼けた肌に、ビーサンそして短パン。

「海は近いけど、サーファーじゃないですよ(笑)。南ですからね、年中日差しが強いんですよ。」

車に乗り、山あいの道を30分ほどかけて色川へと向かう。

大西さんは移住して4年目。

「以前は、大阪のFranc francでマネージメントの仕事に就いていました。地域に根ざして生活したかったわけでもないんです。子育ての場を探す中でたまたま色川に出会って、仕事も見つかって。」

現在は2児のお父さん。

現在は「くらしごと」というクラフトのショップを営んでいる。

「3、4万円の仕事をいくつか組み合わせて生活しています。水は山から来るし、米は自分たちで育てる。野菜をいただくこともある。まちにいたときは、いくら貯金しても不安だったんですけどね。色川に来てから、考え方はずいぶん変わったと思います。」

「自分にはどれくらいのお金が必要なのか、見えてくる。」

4 大西さんは、今回募集する人と地域のみなさんを橋渡しするような存在。

ここで色川が垣間見える“わがら”という言葉を教えてくれた。

「我ら、自分たちという意味です。色川は1,000年にわたり、人が暮らしてきた歴史があります。面積の9割を占める森林を切り開いた棚田。お隣の家の石垣。集落を流れる水路も、道も。自分たちでつくってきたんですよ。そして何代も受け継いでいまがある。暮らしの中に“厚み”を感じるんです。」

「いまの80代のお年寄りは、色川に受け継がれてきた暮らしを守ってきました。そこから学び得られるものは、かけがえのないもの。その世代が残り少なくなり、いまが最後のチャンスです。“わがら”のむらをしっかりと学び、次につないでいく。そういう人が求められています。」

車は、農家民泊Jugemu(じゅげむ)へ到着。

営むのは、奥さんがタイで食堂を経営されていたという30代のご夫婦。

居間に上がり、地域づくりに取り組むみなさんに話をうかがいました。

5 はじめに、色川地域振興推進委員会(以下:委員会)の原和男さんがこれまでの色川の歩みを聞かせてくださった。原さんは兵庫の出身。

1950年代には、銅鉱山で栄えた色川。約3,000人が生活していたそうだ。

その後、鉱山が閉鎖して農林業も衰退。人口は1962年頃から減少をはじめる。

そうしたなか、移住希望者が現れた。

「1975年のことです。とはいえ地域も慎重に考えたそうですね。約2年間にわたる話し合いの後に、移住に至りました。」

農業実習生の受入をはじめたことがきっかけとなり、定住者が増えていく。現在では170人に。

移住者が増える一方で、地元住民の減少は止まらなかった。

年を重ねて亡くなる方も増え、若者は高校進学を機にまちへ出ていった。人口が600人を切った1991年に、委員会が立ち上がり、地域づくりのさらなる取り組み強化を目指す。

1995年には廃校となった籠(かご)小学校をリノベーション。移住・地域暮らし希望者向けの宿泊施設「町立籠ふるさと塾」がはじまる。

町役場に問い合わせを行うと、希望者は2泊3日ないし4泊5日で生活を体験できる。受入の実務を担ってきたのも、委員会のみなさん。

「委員会は地域の人たちが何かやりたいときのお手伝いなんですよ。」

ここで、小阪という集落での活動を聞かせてもらう。

「2005年に休耕田を復活させ、無農薬で米づくりに取り組む“棚田を守ろう会”が立ち上がりました。いまでは地元の住民と移住者が協力して棚田を維持しています。田植えや稲刈りのシーズンには、まちの人を招いてみんなで農作業をするんです。」

活動を続けるなかで、訪れた人から「休んだり泊まれる場があるといいな」という声が上がってきた。

そして今年。

山から木を切り出し、地域の人と訪れた人が協力して小屋を建てた。

6 小阪集落は、地区内でも移住者が少なく、人口減少も著しいそうだ。

「いくら私たちが『人が減っているから、定住促進しましょう』と話しても、暮らす人が必要性を感じなければ意味がないと思うんですよ。地域も移住者も、お互いにうまくいかないでしょう。」

棚田を通した交流は、地域に移住者を受入れるきっかけかもしれない。

「若い人がいると、集落がにぎわうんですよ。地域から『若い人にもっと住んでほしいね』という声が出てくれば、私たちも応えていける。地域の声に寄り添うことが、次につながると思います。」

移住をする上で、一つのネックとなるのが空き家探し。

そこで紹介したいのが、色川に生まれ育った新宅伸一さん。

林業を営みつつ、合間を縫って空き家探しに取り組まれている。

一軒一軒の空き家を回り、縁故を訪ねて話していく。その活動は地の人だからできることであり、とても地道なものだ。

ここで生まれ育った伸一さんも、移住者である原さんも。異なるところはお互いに理解しつつ、地域を受け継ぐことについて、日々真剣に考え、話し合っているという。

7 話は、世代を越えた地域づくりへ。

地の人も、移住者も。子どもたちが色川を出る家庭が多いそうだ。

「いなかは、家族みんなで食卓を囲みます。そこでの会話が大きいんじゃないかな。親が自分の暮らしや仕事を卑下するのか。それとも、大切にしているのか。最後に判断するのは子ども自身ですが、その気持ちは受け継がれていくように思います。」

住む場所は、一世代だけで考えるものではないかもしれない。

「いまの80代の方たちは、ほんとうに大変な思いをして生活してきたんですよね。厳しかった、辛かったとよく聞きます。だからこそ子どもをまちへ送り出したんだよね。その孫にあたるのが、都会に生まれ育ったいまの20、30代だと思います。」

原さんは26歳で色川にやってきた。けれど、離れることもできる。そんな気持ちもあったという。この土地に暮らしていこうと腹が座ったのはここ数年のこと。

「これから来る人も地域も、お互いに戸惑うこともあって当然だと思います。今回の募集はきっかけです。一緒に模索していける人と出会いたいんです。」

学校を卒業後、色川に暮らす人も生まれつつある。

25歳になる原さんの息子さんは、養鶏と牛の繁殖、茶栽培の農業を営む。23歳の息子さんは、獣害対策の専従スタッフとして日々走り回っている。

また在学中の伸一さんの息子さんも、山の仕事を継ぎたいと話すそうだ。

今回募集する地域サポート人は2人体制で取り組んでいきます。

6月よりすでに着任しているのが、酒井美歩さん。彼女と活動する人を募集します。

埼玉出身の酒井さんは、この春に大学を卒業。

8 現在は、町営住宅に住まいながら、色川の歩みを資料で学んだり、地域の集まりに顔を出す日々。最近では「ほっと色川」という地域新聞を、取材から記事作成まで担当するようになった。

原体験は、幼いころから夏休みに帰省していた両親の実家、福島県にあるという。

「これからの社会を考えたときに、地方からはじまる文化があると思ったんです。頭では理解しているつもりでも、体で実感できていない。色川の人たちの言葉には腹があるんですよね。自分にしっかり染み込ませて発信できる役割になりたいんです。」

どんな人に来てほしいでしょうか。

「まずは、色川のみなさんを見て仲間になりたいと感じた方。それから、社会人経験はあった方がいいと思います。同じ方向を目指しつつも、異なる視点を持って一緒に協力できる方がいいと思います。」

翌日は、酒井さんの活動に同行させてもらう。

訪ねたのは、色川小学校。

9. 移住者の増加により廃校を免れ、この夏には将来を見て校舎建て替えを行うことに。

そこで、現校舎を記録したいという声が住民から聞こえるように。

発起人の一人である津崎ふきさんとともに、校舎の撮影に臨んだ。

実はふきさんも移住者の子どもであり、4年前に故郷にUターンした卒業生の一人。

「冊子にまとめていきたいんです。その過程で写真を提供してもらったり、卒業生で力を合わせて編集を行ったり。そういう作業が、いまは離れて暮らすみんなと色川をつなぐきっかけになれば。」

10 夏休みを目前に控えたこの日は、授業風景や休み時間を撮影していきました。

撮影をしながら、酒井さんがふと話した言葉があります。

「サポート人として入る前に、色川を訪ねたことがあったんです。そのとき、地域のみなさんが真剣に話していて。内容はわからなかったけれど、伝わるものがありました。最近、少しずつ頭でも理解できるようになったと思います。」

少しずつこの場所を感じながら、だんだんと“わがら色川”という場所になっていくのだと思います。

(2014/8/12 大越はじめ)