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「学校?小学校は漁船に乗っていったよ。中学は山を越えて1時間半。ここ?昔もいまもなーんもないまち。」
いなかのおばあちゃんには、ニコニコ笑っているイメージがあった。けれど浜中さんからは、一つひとつを自分の手でつくりあげた厳しさと力強さを感じました。
そんな浜中さんが生まれる前から、梶賀町で食べられてきた料理があります。
「あぶり」
その名の通り、獲れたての魚を塩のみで味つけして、桜や樫の木であぶった魚の薫製です。
いまから100年以上前、冷蔵庫のない時代に保存食としてはじまったそう。
訪れた人の提案により、2009年に真空パックでの販売を開始すると、たちまち大人気に。1年間に1万食が売れるまでになりました。
取材に訪れた9月の時点で、今年度分は完売。早くも来年度の予約受付がはじまっています。
人気の理由は、味。そして手づくりの風景にあるようです。
浜中さんは漁が休みとなる7、8月を除き、ほぼ毎日道路ばたで、あぶりをつくっています。

地域の原風景とも言えるあぶりを軸に、梶賀で仕事をつくる人を募集します。
最初から長い移住は求めません。まずは最大3年間の任期で事業化を実現するところからはじまります。
名古屋から車で3時間ほどの三重県尾鷲市。
市街地からおよそ20分。トンネルを抜けると、梶賀町が見えてくる。
到着したのは、もう日も暮れかかった頃。この日は釣り客でにぎわう町内唯一の民宿勝三屋(かつみや)に泊まる。
翌朝、目が覚めたのは5時頃。
薄暗い中、港には漁師たちが集まりつつある。家々の煙突からは煙がのぼりはじめた。

105軒に170人が暮らす梶賀町。
大敷網(おおしきあみ)と呼ばれる大型の定置網漁が行われます。水揚げされるのはブリなどの大型魚種から、アジやサバといった小型魚種まで多品種の魚。
あぶりは、各家庭で保存食としてつくられてきました。売り物にならない雑魚を、山から切り出した雑木で薫製してきました。
商品として販売を開始したのは、2009年のこと。

現在商品となるのはカツオ、イサキ、一番人気は、小サバ。
サバは「生き腐れ」という言葉もあるほど、足が早い魚。身が小さいため、山から切り出した手製の竹串に刺して薫製します。
企画から商品化、販売までを行うのがお母さんたちが中心となる「梶賀まちおこしの会」。
代表であり、民宿勝三屋を営む中村美恵さんに話をうかがう。
町外の人からあぶりの商品化を提案されたときは、半信半疑だったそう。
「梶賀ではごく当たり前に食べてきたので、売りものになると思わなかったんです。初年度に100食が完売したときは、驚きましたよ。」

「もともとは、売りものにならない雑魚をタダでもらっていたのが、お金を払うようになったんです。魚の価格は、数十年の間、下がり続ける一方でした。値段がついたのは大きい出来事ですね。」
お母さんたちの仕事づくりにもつながった。
「あぶりを生業にするお母さんが3人、お手伝いする人も出てきました。出荷作業をするまちおこしの会のお母さんにも、ほんの少しだけれど手間賃を払えるようになりました。」
以前から干物づくりなど、水産加工の仕事はあったけれど、先行きは不透明。今後の梶賀の姿を見据えたとき、中村さんたちは、あぶりを軸にあらたな産業をつくりたいと考えた。

今後は、あぶりにまつわる物語や梶賀町の魅力も届けることで、価値を高めていきたいという。
一方で、着実にファンは育ちつつあります。
年間で1万食を売り上げる一番人気の小サバは、20匹入りで650円。
リピーターの方からは「安すぎる。1,000円でも僕らは買うよ」と生産を気づかう声も聞こえるように。
また、メディアで取り上げられると「いくら払ってもいいから、ぜひ食べてみたい」と連絡をくれる人も現れます。
さらには、通販で手に入らないあぶりを求め、遠路はるばる梶賀を訪れる人もいるとか。
事業化に向けた土壌は整いつつあるけれど、中村さんたちはなかなか踏み出せずにいます。
「わたしたちはつくるプロであっても、販売は素人です。消費者の人たちがどんな生活をして、どういう金銭感覚なのか知りません。」

「いまは3人のお母さんが各々に生産していますが、高齢化も進みつつある。しっかりとあぶりの技術を受け継いでいきたいんです。法人格を取得して、担い手を育てることも視野に入れています。」
いま梶賀が求めているのは、つくるプロに応える“届けるプロ”。
「消費者の生活や金銭感覚を持ちつつ、一緒に事業化を目指していける人に出会いたいんです。」
現在は東京駅で扱う話も出ているという。
新幹線のツマミとしては、小サバ20匹は多すぎる。ロットを落とし単価を高めることも考えられます。
梶賀が面白いのは、すでに販路が確保されている点だと思う。
日本全国で、地域産品のブランド化に取り組む自治体は増えています。年間で20,000〜30,000の商品が誕生しているともいわれるけれど、販路を確保できているのはごく一握り。
商品は開発したものの、プロジェクト自体が立ち消えするのも珍しくありません。
あぶりという商品をどうブランディングしていくのか。地域の人の声を聞き、事業として成り立たせていくプロジェクトと言えます。
すでに梶賀町では、構想を固めつつあります。
「あぶりをきっかけに、わざわざ梶賀に来る人を増やしたいんです。」
現在も梶賀を訪れる人はいるそうだ。
「TVで紹介されると、あぶり見たさに大阪や名古屋から3、4時間かけてやってくる人がいます。いまは受け入れ体制も整っていませんが、せっかく来てくれたからには、梶賀を楽しんでほしいです。」
一通り話をうかがったところで、船に乗り込み、大敷網の様子を見に行くことに。
同行してくれたのは、伊東将志さん。

伊東さんは今年9月に、活躍の拠点を市内の観光施設へと移しました。
「外から尾鷲に飛び込んでくれるわけじゃないですか。受け入れ側の僕もチャレンジしなければと思ったんです。今後は販路という出口から、支援・連携を進めていきたいです。」
施設の仕事に留まらず、自ら特産品開発にも取り組む伊東さん。寝るヒマも惜しんで活動しています。
また最近では、尾鷲のPRや講演依頼で日本全国を奔走することも多い。そのなかで見えたことがあるそうです。
「地域へ入るのは、どこか特別なことと思われるかもしれません。でも、一つの転職の機会ともいえます。地域で仕事をつくることで、身につくものはとても大きい。誰にでもできることではないと思うんです。」
「社会の第一線でキャリアを積んできた人が、これまでの経験を活かしつつ、次の段階へと向かうきっかけにもなります。まずは3年間を区切りとして、あぶりの事業化に一生懸命に取り組むのもアリだと思います。」

「すでにモノは売れているわけですよね。でも、大量生産には応えていくことができない。その中で、どう事業を描いていくのか。梶賀町の人と話し合い、地域にとっての“幸せ”から事業を考えるプロジェクトだと思うんです。ぜひ一緒に、やっていきたいです。」
将来的には専門的な力が求められていくプロジェクトです。
商品のブランディングやマーケティング、流通に関わった経験があり、つくり手に近い立場から進めていきたい方にはよい機会かもしれません。
一方で、社会人としての基本的な素養があれば、働きながら力をつけることも考えられる。
今回の募集は、総務省の地域おこし協力隊という制度を用いたもの。
年間で約200万円の活動費を活かし、日本全国の先進事例を学ぶこともできるといいます。
この日、伊東さんはこんなアイデアを話してくれました。
「漁への出港からあぶる現場まで。一連の流れを体験して食べると、味が格段に違いますよね。」
まだ日が昇る前。出港する漁船に同行して大敷網漁の現場を見せてもらう。港へ戻ると、あぶりの見学。できたてのあぶりと、その日穫れた海の幸を盛り込んだ大敷汁をいただく。

町へ戻りしばらくすると、大敷網の漁船も港へと帰ってきました。
その漁船に、今年9月に尾鷲へ移住をした方を訪ねました。
大阪出身の北田さんは、地域に関わるコンサルタントとして活動してきた方。縁あって尾鷲には5年前から通ってきたという。
現在は、尾鷲の市街地に仮住まいをしながら梶賀町で漁師をしています。

どうして漁師だったんでしょうか。
「特別な仕事と見られることもありますが、サラリーマンという意味では、役場に勤めるのと変わりないと思っています。むしろ机の上にいるよりも、一つひとつが生々しい。楽しいですよ。」
この日、思いがけないことが起きました。

すると浜中さん。
「家はどうしてるの」「うちの隣が空いてるぞ」。
その場で住まいが決まりました。今後は、奥さんとお子さんと共に梶賀に暮らす予定という。
もし参考になれば、と北田さんは自身の体験談を聞かせてくれた。
「漁師さんは、口が悪くて一見怖く見えたんです。けれど、よくよく話してみると、みなさんいい人で。ただ、教えることに慣れていないんですね。はじめて梶賀を訪れる人は、勝手が違うことも色々あるでしょう。」
「でも、違いも楽しみだと思います。お互いのよさを活かしていけたら。梶賀の人から学ぶことはほんとうに多いですよ。飛び込んでみてください。きっと面白くなります。」

地域にとっての幸せとは。
届けるプロとして力を磨きつつ、試行錯誤をくり返す3年間で培われる経験は身となり、自ずと次の道も見えてくると思います。
(2014/10/24 大越はじめ)