※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。
「安さ競争ばかりなんです。適切な表現じゃないかもしれないけど、日本って気がついたら一番安い労働力のところでつくられたものに囲まれちゃっているんですよ。」
ものの善し悪しに関係なく、みんなが一番安いものばかり選んでいたら、それは巡り巡って、自分の仕事の価値も下げてしまうのかもしれない。
一方で最高の仕事には、ちゃんと評価してくれる人が現れる。そんな最高の仕事をコツコツと探しながら「ここにあるよ」と伝えるのが、今回募集する人の役割です。
アニックアソシエイツでは、Webページをつくったり運営できる人を募集しています。
目黒通り。ここにはたくさんの家具屋が集まっている。それぞれが個性的で、ウィンドウショッピングをするだけで楽しい。プールアニックもそのひとつ。

木をつかった家具が多い。ミッドセンチュリーと言われていた50年代60年代の北欧の家具など、世界で使える工業所有権もいくつかもっているそうだ。
「つい先日も新しく、古い椅子の版権を契約しました。昔のデザインも大切にしたいんです。簡単なことじゃないですよ。何度もデンマークに飛んでいるし。」
ぼくがはじめてプールアニックに出会ったのは、10年くらい前のこと。千駄ヶ谷にあったお店で、世の中に家具屋さんはたくさんあったけれども、「こんなデザインの家具があったんだ!」というような、ほかでは見たこともないようなものがたくさんあった印象がある。
「あのあと身体をこわしてしまって。お店はここだけになりました。」
そうだったのですか。
お店の家具はどのようにして選んでいるんですか?
「世の中を見ているんです。」
世の中を見る。
「木のものが続くと、あっちこっちで木のものをつくりだしたり。日本でもアジアがいいときもあったし、ミニマリズムがいいとか、禅がいいこともあった。基本は折衷だと思うんだけど、自分で見つけた古いものと新しいものを組み合わせる。そういう個性を活かしたり、選択肢を増やせるようなマーケットが必要だと思っています。」

田中さんの危機感はどこからやってきているのか。どうして今の仕事をはじめたのか、昔を振り返ってもらった。
「私は若いころ、家具屋になりたいとは思ってなかったんですよ。何を思っていたかというと、いろいろな言葉をしゃべって地球上のいろんなところに行って、異なる文化のものを輸入したり輸出したり、そういう仕事に関わりたいと思っていたんです。」
10年ほど父親の貿易会社で働いていたそうだ。建材や家具、アパレルなども扱っていた。
「父の背中を見ながら、『おれもそうなるんだろうな』って思っていましたよ。日本も元気だったから、どんどん外にでていこうと思って。」
どんな国に行かれたんですか。
「中南米以外はだいたい。東西冷戦のころの東欧とか。あのときはルーマニアで家具を買ったり。一番安い方法は、シベリア鉄道で運ばなくちゃいけない。でも秋口に注文入れると、日本にひびが入って届くことになる。」
あ、極寒の中、運ばれるからですね。
「冬に注文して春に出せば、きちっとしたものが入荷するとか。すごく現実的なテクニックを覚えたころですね。」
その中で、デザインに興味を持っていったのはどういう経緯なんでしょうか。
「たとえば中国にいくと、ヨーロッパの秀逸なデザインも流れてきているんですけど、それよりも中国の焼き物の産地、景徳鎮を見ていると、瀬戸物のルーツが見えてきたり。鼻煙壺という、アヘン戦争のころに、悪いもの入れてくっと吸ったりするようなちっちゃな瓶があるんですけど、そこにアールヌーヴォーのエミール・ガレが100年前につくった作品のルーツを見るようでもあったり。」
「インドのシタールという楽器だとか、モロッコのマラケシュの絨毯だとか。そうやってデザインにひきこまれて、みんなに紹介したいなと思ったのがはじまりです。」
個人的にはミラノサローネとかで見るような、新しい家具が好きなのかと思っていました。
「そうですか。もちろん、ミラノに赴任していたときに、デザイナーと交流が多かったので、そのパイプもありますよ。」

毎回、発見で面白いですね。
「そうですね。面白さはデザインだけじゃなくて。たとえばモロッコで絨毯を買うのは大変なことで、ほんとは20分くらいで済ませたいんだけど、座らされて4時間くらいになってしまう。そうなると価格の交渉がはじまるんですね。」
「ぼくは適正な値段っていくらなのか、いつも考えています。鋲の打ち方だとか、縫製のしかたを見ながら、『これはこのぐらいだろうな。』っていうことはわかるような目をつけてきた。スタッフにもよく言っています。『面白いものを見たときに、いくらなのか、どこでつくられているのか必ず見るように』って。そうしていかないと、値段が安いもので日本はおおわれてしまう。」
デザインだけじゃなく、そのものの本当の価値に興味があるんですね。
「そうですね。独立してから、はじめは大企業の戦略商品の開発とか、マーケティングの仕事をして、新しいマーケットを構築することが主な仕事だったんです。でもそれって、1クールで請求書をつくって終わりなんですよ。もちろん次の仕事につながるようなこともあったけれど、自分の上に積み重なっていく仕事がしたかった。」

「スポーツの仕事だとか、公園の設計だとか、いろんなことができて楽しかったですよ。だけど『これはあと20年経っても同じことをやっているのかな』って思ってしまった。世の中が変わっても大切にしてもらえるものを仕事にできるか。いいものを見極める力が必要になってきたんです。」
「自分の耳とか、目とか、そういうものを鍛えて『これいいな』というものを提案していきたいんです。インターネットを使うことが前提ではなくて、これからも残していきたい、引き継いでいきたいものをインターネットによって伝えていきたいと強く思っています。それは忘れないでもらいたいもの。」
伝えたいものはずっと変わっていないんでしょうかね。
「そうですね… 微妙に変わっていることはありますよ。本当は真鍮のネジでつけたいところを、我慢しなくちゃいけないときだってあるわけです。作品を売っているわけではなくて、商品なので。それはある程度理解しなくちゃいけない。でも地道にやっていけば、『おっ』って立ち止まって見てくれる人がいると思います。」
今回は家具に限らず、世界中のいいものを世の中に伝えるWebサイトをつくる人の募集となる。とはいえ、4人の会社なので、そればかりやっていればいいわけじゃない。お店で接客をすることもあるし、家具の搬入をすることもあると思う。
それは大変なことでもあると思うけど、裏を返せばすべてを見渡せる仕事でもあるし、話し合いをしながら進めていくので、自分の意見も形になっていくと思う。
実際に働いているスタッフの方々にも話を聞いてみた。
まずは田神さん。もともと建築を学び、その後はレストランで働いていた方。
「料理も面白かったんです。きれいに盛りつけると、お客さんが喜んでくれる。でもやっぱり建築を勉強していたので、そういう仕事をしたいと思っていたときに、アニックに出会いました。」

「椅子とか好きなものに囲まれて働く。もちろんそれだけじゃなくて、お店の売上も考えなくてはいけないし、ずっとお付き合いしていくようなものを販売するので責任が継続する仕事なんだと思いますよ。」
もう一人はWebを担当している宇都宮さん。もともとは愛媛県出身で、アパレルの仕事をしていた方。
「学生のときに上京したんですけど、いったん愛媛に戻っていたんです。でもやっぱりもう一度東京にでて、自分の実力を試したいと思ったんです。」

「パソコンが得意だったわけじゃなかったので、どうしても仕事が限られるんですね。自分も制作に関わりたかったという悔しい思いもあって。それで職業訓練の学校でWebとグラフィックを学んで、その後に入社したんです。」
2人とも、もともと今のような仕事をしてきたわけじゃないけれども、小さな組織だからこそチャンスがあったように思う。

「Webの技術があることも大切ですが、柔軟性があって何よりも好奇心があること。いろいろなものをどう混ぜていくかなので。それが今考えている新規事業にもつながっていきます。」
やっぱり折衷なんですね。たとえば和洋折衷とかですか。
「和洋もあるし、前後もあると思います。過去のものと新しいもの。自分なりに考えて組み合わせることって、とても楽しいことなんですよ。形もそうだし、香りも、音も。それを伝えていかなきゃいけない。」
この仕事には3つの面白さがあると思う。まず良いデザインに囲まれていること。そして商売とはどういうものなのか、身近に感じられること。そして、時代の流れやデザインの文脈を読んでいくこと。

ぜひまずはお店を訪ねてみてください。
(2014/11/4 ナカムラケンタ)