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滋賀県の近江八幡(おうみはちまん)市は、琵琶湖のほとりに位置して古くから商いの街として栄えた土地です。ここに、今から140年あまり前、1軒の菓子店「たねや」が開店しました。
新しく大型施設をオープンするタイミングで、たねやグループが情報系広報の担当者を募集します。
日牟禮(ひむれ)八幡宮は、商売の神様として地元の人たちから信仰を集めた神社。たねやの本店「日牟禮乃舍」があるのは社の境内だ。
創業は1872年(明治5年)。種商や材木商の時代を経て、たねやの初代が菓子業に入ったのがこの年だという。
もともと和菓子でスタートしたが、途中から洋菓子も扱いはじめた。
「近江八幡には、かつて外国人居留区もあったんですよ。」
と教えてくれたのは、たねや事業部の部長、小西達也さん。神戸のようなハイカラな土地柄だったようだ。
「近江八幡には、日本に西洋建築をもたらした建築家の(ウィリアム・メレル・)ヴォーリズさんが住んでおられました。」
和菓子本店の日牟禮乃舍の向かいには、洋菓子本店の「クラブハリエ日牟禮館」がある。
奥にはヴォーリズ建築を改修した特別室のカフェもあって、建築ファンは必見だ(前日までの予約で入れる)。
それまで和菓子店の一商品として扱っていた洋菓子を、独立した「クラブハリエ」ブランドにしたのが1951年。ヴォーリズ建築にも使われる「玻璃絵(ガラス絵)」から取った名前だ。
彼はこの地を生涯愛し、教育や医療にも事業を通じて力を注いだことでも知られる。ニックネームは「青い目の近江商人」。
「滋賀の国を昔は近江と呼んでいました。近江商人の中にもいろんな商人がいます。たねやがある土地は、特に八幡商人と呼びますね。昔の安南、今で言うベトナムですが、そこと初めて貿易をしたのが八幡商人とされているんですよ。」
とてもスケールの大きな話で、おもしろい。
「船が八幡のほとりからすーっと出て、琵琶湖を通って、淀川を渡って、大阪湾から海へ出て行ったと伝えられています。」
現在は本社や工場、流通や販売など1800人弱のスタッフを抱える、たねやグループ。
和菓子と洋菓子をあわせて、滋賀、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、福岡と店舗をかまえているが、社員の現地採用はあまり行わず、滋賀の本社で採用している。
広く国内や海外へ船出する商人の伝統が生きている、そんな印象を受ける。
小西さんは26年前に営業部へ入り、県内の店舗や物流部を担当。今から7年ほど前まで、東京で店長をしていた。その後、本社へ戻って事業部の立ち上げに関わった。
事業部では新規事業の推進、広報活動、ネット上の情報戦略を連動させながら、それぞれの課をおいている。
「若い企業やと思いますね。平均年齢も35歳くらい。4代目の社長に代替わりしてから3年です。社長は45歳なので、私のひとつ上になります。」
小西さんが入社してからすぐのころ、まだそんなに大きな会社ではなかったのだという。
和菓子の需要が大きく伸びたことに加え、近年における急成長の鍵は「バームクーヘン」だった。
「あるとき、クラブハリエの“グランシェフ”である社長の弟のアイデアで、お客さまへの見せかたを変えたんですね。」
現在のたねやグループを率いるのは長男が和菓子の社長、次男が洋菓子の社長という兄弟だ。
「子どものころから兄弟が工場で見ていた、でき上がったばかりの焼きたてバームクーヘン、それを丸太のまま売場でも見せたんです。」
1999年の10月、バームクーヘン専門店を大阪・梅田にある阪神百貨店に出店。大人気を博し、バームクーヘンのブーム火つけ役にもなった。しかし当時、百貨店の菓子店で1品種に絞るというのは、かなり大きな賭けだったらしい。
いかにも果敢にビジネスに挑戦する八幡商人のエピソード。兄のほうもイタリアで出会ったオリーブオイルに惚れこみ、和菓子とのコラボレーションをはかるなど、チャレンジ精神旺盛だ。
このオリーブ大福の強烈なインパクト、女性誌や情報誌で見かけた人も多いのでは? これからもさらにオリジナリティあふれる商品が登場するというから楽しみだ。
ここからは募集職種の詳しい解説を。
お話をうかがったのは、事業部の情報戦略課、田井中未来さん。小西さんの部下にあたる課長だ。
今回の募集は田井中さんが結婚して近江八幡を離れるため、その後任者の募集になる。
「2007年入社なので7年務めています。今の仕事は情報戦略課が立ち上がってからなので、2年ですね。」
34歳の田井中さんは、近江八幡の隣の京都出身。立命館大学の大学院に在籍しているとき、客員教授だったライフスタイル・プロデューサーの浜野安宏さんが主宰する「浜野総合研究所」で1年間、休学して働いた。
「その後、関西に帰ろうとしたとき、浜野さんとたねやの名誉会長(3代目)に面識があって、『君にピッタリなところがあるよ』と私も知らないうちに話をしてきてくださって(笑)」
「私も学生時代、たねやのお店の接客にとても感動した記憶があったので、あらためてそういう目で会社を見て『あ、ここで働きたいな』と思ったんです。」
最初は、大学院生活とかけ持ちしながら、商品企画課でアルバイト。新入社員として入社後は日牟禮乃舍で修行し、事業部が立ち上がるタイミングでメンバーに。店舗開発や事業推進などを担当した。
現在は情報戦略課でネット上の広報を主な仕事にしている。Facebookページの更新やWebサイトの運営が大きな役割を占める、情報系職種だ。
1日の仕事は、全体会議、部内ミーティング、企画の提案、取材、執筆など。社内の情報を社内や社外向けに発信し、ファンとのコミュニケーションをはかる立場を担っている。
「Facebookで記事を書くときは、工場に入ってつくっているところを見たり、職人さんに美味しさの秘密を聞くようにしています。ひとつのお菓子にもいろんな魅力がつまっていますから。」
SNSの運営は、老舗企業といえどもこれからは必須ですね。
「ええ。社内の人たちがまず楽しんで、その雰囲気を外に発信することを心がけてますね。」
そんな田井中さんたちがいま、もっとも力を入れるのが、2015年1月9日にオープン予定の新施設「ラ・コリーナ近江八幡」の広報だ。
名づけ親はイタリアの建築・デザイン界の巨匠、ミケーレ・デ・ルッキ氏。彼が現地を視察したとき、なだらかな周囲の丘陵地帯を見て、そこへ連なる丘(コリーナ)のイメージを描いたのにちなんだ。
敷地面積は3万5000坪。甲子園球場が3個分という大きな施設だ。
自然をゆったり楽しんだあと、「お菓子もちょっと買っていこうかな」と思える場所。近江八幡の新しい名所となるのを目指している。近年中には本社機能もこの地に移転させるそうだ。
和洋菓子を販売するメインショップの建築を手がけるのは、建築史家・建築家の藤森照信さん。
田井中さんも、土壁塗りや焼き杉、天井への炭付けなどの建築ワークショップに参加したというから、思い出深いだろう。
スタートを見届けつつ、今回採用される人に新ブランドの浸透を任せることになる。Webサイトはもう立ち上がっている。
「従業員が自分たちの言葉で発信するのをテーマにした『ラ・コリーナ日誌』というコーナーがあります。ブログ形式で、社内のいろんな人に書いてもらっているんです。」
田井中さんの課には、サイトの更新などをする技術担当の男女が1名ずついる。FacebookはともかくWebサイトの技術がない人でもつとまりますか。
「それは問題ないです。むしろ、情報に敏感で新しいことにワクワクできる人。それを楽しく発信できることが大切ですね。」
そうはいっても、老舗の看板をになう折目正しさは必要だ。
「たねやの主要なお客さまは、30~40代以上の女性。そういった層に向けて、ちゃんとした表現ができることも重要ですね。」
仕事で大変なところはどこでしょう?
「たねやグループが目指すものを伝えていく仕事、いろんな魅力を届けていく仕事なので、求められるハードルは高いですね。乗り越えないといけない、という局面はあります。」
1800人の会社の情報戦略を一手に引き受けているのですからね。
「ただ、ページの企画も楽しいですし、取材をしていろんな人とコミュニケーションをとりながら記事を書くのも楽しいです。」
「仕事の責任は大きいですが、どんどん任せてやらせてくれる会社だと思います。」
お菓子の味だけではなく、これからはお菓子にまつわる体験や気持ちを共有してもらう。そうやって次世代のファンをつくるのが、たねやグループがラ・コリーナを通じて目指すものなのだろう。
近江の歴史や自然、文化を大切にしながら、バームクーヘンの「見せかた」を転機に大きく飛躍した、たねやグループ。その新しい章が2015年からはじまろうとしている。
これから長きにわたる、ラ・コリーナ近江八幡プロジェクト。玄関口となる「メインショップ」がオープンして終わりではない。自然に学び、人と自然が共生する場として、今後もさまざまな計画が進行中だ。
「本当にスゴい話題が盛りだくさんです。たねやグループには老舗の深みもありますし、新しい未来の話もあります。私自身、これからの展開も楽しみなんです。」
デザインや広報をていねいに手がける会社だから、田井中さんのバトンを受け取る人は、ある程度の実力がないと引き継ぐのが大変かもしれません。
ただ、新規事業立ち上げの機会に関われる仕事というのは、本当に貴重です。Uターンにせよ、Iターンにせよ、これまで培った能力を生かして、いい経験が積めることは間違いなさそうです。
(2014/12/16 神吉弘邦)