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あんなに離れたくてしかたなかった地元なのに。都会で暮らしていると、なんだか恋しくなる。たまに戻ると懐かしい気持ちでいっぱいになる。でも仕事なんてないし、今のままで仕方ないのかな。そんな人たちにメッセージを送り、鮭が生まれ育った川に戻ってくるように手助けをしているのが一般社団法人信州若者会議です。

代表の児玉さんはこんなふうに話します。
「仕事のあるなしじゃないんだ。そもそも地元がなくなっちゃうぜ?」
信州が好き。地元で働きたい。風景を残していきたい。
そんな人はぜひ読んでみてください。信州若者会議の事務局長と営業担当者の募集です。
東京駅を出た長野新幹線は1時間ちょっとで上田駅に到着した。改札をでると児玉さんが迎えにきてくれていた。

「あっちが上田城ですよ。」
そんな会話をしながら上田の案内をしてもらう。もっと雪があるかと思ったらそうでもない。
10分ほど歩くと、上田名物の焼きそば屋さん。かた焼きそばのような独特な形。一緒に頼んだワンタンスープもおいしい。児玉さんは高校時代から通っているらしい。地元は旧武石村で、現在は合併して上田市になった。
「東京に出てIT企業の営業やっていたんですけど、地元が好きで。東京でアスパラを売りはじめたのが2007年くらい。アスパラを100円で仕入れて300円で売る。でもこれだけじゃ生活できない。」

「それでも活動していると、地元に戻る人がいるんですね。ぼくも勇気がでてくるし、戻りたくなる。なんとかなりそうな感じがしてくる。」
まずつくったのが地元カンパニーという会社だった。はじめはカタログギフトの販売からスタートする。
そんなときに中小企業庁の事業を手伝うことになった。東京にいるけど、地元に戻りたい人を探して、信州の企業を紹介するというようなもの。
「ただ、結構難しいんですよね。」
難しい?
「長野県出身者を東京で探すということが。毎年東京へ5000人くらい上京しているけど、大学に行ってもなかなか会えないし。」
どうやったら長野県出身者を集めることができるのか。そんなときに思いついたのが「信州若者1000人会議」だった。
「大学を一件一件訪問しても、らちが明かない。それならみんなが集まる場所をつくったらいいんじゃないかなって。しかも1000人集まるなら、みんな来るんじゃないかなと思って。」
渋谷ヒカリエで開催した1000人会議は好評だった。長野県からも注目を浴びることになる。

「とはいえ、地元カンパニーも信州若者会議も、両方自分がやっていたら倒れちゃうかな、と思って。倒れないんだけど(笑)一番の理由は若者をターゲットにしているので、担い手も若いほうがいいなと思ったんです。」
食事を終えると、30秒ほど歩いたところにあるブックカフェへ。並びには信州若者会議のオフィスもある。

「わたしは長野県の生坂村というところに生まれたんです。エリアとしては松本のほうで、安曇野市の隣。高校まで地元がすごくきらいだったんですよ。」
きらいだった。
「なぜって、山と田んぼと川、それにダムしかないから。こんな田舎はやくでていってやる、って。」

大学では広告の勉強をして、卒業してからは広告の制作会社に就職した。
「3年くらい修行したら地元に帰れればいいな、と思っていたんです。そんなときに1000人会議のことを知って。長野県の人が集まって、おやきを食べて、という内容にひかれて。社会人ボランティアとして参加したらすごく楽しかったんですよ。」
「受付を担当していると、同じ生坂村出身の子や母校の後輩に会って。一日を通して、やっぱりわたしは信州が好きなんだって思いました。帰りたい気持ちがどんどん大きくなっていったんです。打ち上げで児玉さんと話して、人を探していることもあって、運良く入れることになったんです。」
すると、どんな仕事をするかわかっていなかった?
「そうですね。」
入社してからはどうでしたか?
「最初に上田に行った日が花火大会だったんですよ。上田で活動されているいろんな人に会って話したんです。ここで働くのが楽しみだな、って思ったのが第1印象。」
「あと広告の仕事はやらされているという感じだったんですけど、信州若者会議の仕事は自分のやりたいことだった。自分が共感している想いやこうなってほしい、という気持ちを形にできるんです。小さい会社だし、ちゃんと自分の意見を言うこともできる。それがうれしかった。」

ところが次に担当になったのが、カタリバ信州の立ち上げから運営までの仕事だった。
カタリバとは高校生が、大学生などの少し年上の先輩と対話する中で、自分の目標を考えるきっかけをつくる学習プログラムで、全国で開催されています。
「わたしは教育とかキャリアとか、全然勉強もしていないのに、すべて任されることになったんですね。どうしたらいいのか悩んでいたんです。でも研修を受けたり、児玉さんと話しているなかで、自分も高校生を経験しているからこそ、わかることがあるように思ったんです。」
「それにずっと地元がきらいって思っていたけど、今は逆にこうして地元の若者たちに、キャリア支援というかたちで自分の未来と向きあう時間を届けるような仕事をすることになって。だからこそ、わたしにできることがあるのかなって思えるようになりました。」
すごい自分の仕事に納得できるようになったんですね。
「そうですね。こっちにいると、働くことと暮らすことも密接で。今はシェアハウスに住んでいますが、そこで仕事している人とも飲んだり、生活と仕事がものすごく近くなりました。」

「あとわたしたちが目指すものとして、『カムバックサーモン』というスローガンを掲げているんです。」
カムバックサーモン?
「鮭の遡上になぞらえて、長野県に生まれた人が都会の大海原で育って、また豊かな地元に戻ってきてね、というコンセプトなんですけど。それにわたしはすごく共感しています。東京を否定しているわけじゃないし、東京じゃないとできない仕事もあることを、私たちは知っているし。」

同時に自分自身が信州で働き、生きていくことにもつながっていく。
だからこのコンセプトに共感する人には、宮木さんのように悩んだりすることはあるけれども、きっとしっくりくる仕事なんだろうな、と思いました。
一緒に働きたいのは、児玉さんに面倒くさがられても「ちゃんと思ったことが言える人」であり、「相手の思いを汲み取って提案できるタイプ」とのことです。
もう少し具体的にどんな仕事になるのか、児玉さんに聞いてみる。
「事務局長は、まずお金のことを考えられる人。県などから委託事業として受託したり、長野県内の企業から広告費などをいただくなどのお金の入り方がある。そんなお金を管理しながら、営業マンにどれくらい予算が必要か話したり、どれくらい会報誌などにお金をつかえるか考えたり。」
まずは金庫番としての役割。
「そうですね。あとはもうひとつ事業をはじめようと思っていて、自治体やNPOなどの課題について、参加者とともに考え、一緒に解決していくことも考えています。参加者は信州に戻りたい若手社会人とか、県内の企業の若手社員とかですね。よければ企業などに採用されることにもつながったらいいと思います。『若鮭アカデミー』という名前を考えていますよ。この運営もしてほしいです。」
「あと必要なのが営業マン。県内の企業をまわって、採用広告を取ってくる人。今は営業マンが3人いて、もうひとり来てほしいなと考えています。」
実際に営業担当として働いている山岡さんにも話を聞いてみる。
「ぼくは高校まで松本にいて、大学で東京に行って、卒業後もそのまま食品メーカーで働いていたんですけど、信州に帰ってくるんです。そこで就職したのですが、自分に合わなかった。そんなときに、高校の同級生である宮木に会うんです。」

「そうなんです。そのときに仕事の話を聞いて。募集もしていたので入社に至りました。」
今の仕事はどうですか?
「トリッキーな組織だと思います。」
トリッキー?
「オフィスもフリーデスクだし、服装も今までと全然ちがう。ベンチャー企業だなって。あと若い人が多いから、面倒なこともないんです。」
営業の仕事はどうですか?
「ぼくは200社くらいまわりましたね。最近はインターンシップの広告とか成約しました。先方から『来てほしい』と連絡いただけることもありますよ。結構、1000人会議が新聞やテレビにもでているので。もちろん、それでも門前払いのところだってあります。制作チームがいい資料をつくってくれるので、それはとても助かっています。」

「成果をあげなきゃいけないところですね。」
そうですよね。
「だから自分でどんどんやってしまえる人が合っていると思いますよ。ぼくも児玉さんも体育会系ですし。」
最後にあらためて児玉さんの言葉をかみしめる。
「仕事のあるなしじゃないんだ。そもそも地元がなくなっちゃうぜ?」

信州で就職する機会です。そして、この仕事を通して、自分のように地域で働く人を増やしていくことができる。それはこの風景を残していくことにつながるんです。
地元は残せる。取材を通して、すっかりそんな気持ちに変わっていたことに気づきました。
(2015/1/26 ナカムラケンタ)