※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。
デザインの仕事というのは、基本的に誰かの依頼があって進めることが多い。あるプロジェクトや製品のために、デザインが必要になる。だからデザイナーに依頼がある。そんな受け身の構造だからこそ、働き方に不自由を感じることもある。
しかもデザインの仕事は、表面的には華やか。だからこそ、現実とのギャップも感じやすい。
自由にデザインするためにはどうしたらいいのか?
その問いに答えをだそうとしているのが、岡山にあるlx(ルクス)という会社です。

羽田空港から岡山空港までは一時間ちょっと。空港のロビーを出ると、ルクスの代表の明石さんが迎えに来てくれていた。東京と比べると、やっぱり空気がいい。
車に乗り込んで、まずは世間話をはじめる。

ここでぼくと明石さんはそれぞれのグループの講師役だった。建築や不動産業界の方が多いなかで、明石さんはめずらしくグラフィックデザイン出身の方だった。
それでもなぜ呼ばれたのかと言えば、岡山にある倉庫街を一変させた張本人だから。
車は問屋町にたどり着いた。ここはもともと問屋さんなどが集積した場所で、今はカフェや服屋さんなどがたくさんあつまっている。

「はじまりは、大森さんがここにオフィスとカフェをつくったんだ。さらにぼくは3つのアンカーをつくった」
アンカー?
「そう。岡山が誇るブランドのお店とか、3つのお店に出店いただいて。『こんなまちにすることを目指している。だからぜひともあなたに来てほしいんだ』ってお願いしてね」
3つのアンカーがうたれたことで、この街にお店を出す人が増えていく。

女子に大人気のお肉料理屋さん。ロハスがテーマとなったビル。とんでもなくいいものが良心的な価格でそろうアンティーク家具屋さん。ぜいたくな天高と広さのオフィススペース。
空室が生まれたら、すぐに埋まってしまう場所になってしまった。
ちなみに、明石さんはお金をもらってこの「まちづくり」をしているわけじゃない。もちろん、結果としてデザインの仕事はやってくるそうなのだけれど。
問屋町のカフェに入ってコーヒーを飲みながら話すことにした。平日の昼間だというのに人がはいっている。
「デザイナーって、言われたものをつくる仕事で。結局は下請け業なわけ。依頼してくれる人がいなくなったら、そこで終わりなわけだから」
「それでもひとりでやっていれば、なんとか食べられるお金は稼ぐことができる。でも社会的な地位は低かったりする。これだけデザインが街にあふれているのに」
そんなデザイナーの働き方を自由にするために、明石さんは主に2つのことに取り組んでいる。
ひとつは仕事のやり方を変えること。もうひとつは組織のあり方を見直すこと。
仕事のやり方については、問屋町のまちづくりが象徴的かもしれない。
ひとことで言えば、頼まれていないことを提案することだった。問屋町も、誰に頼まれたわけでもなく、出店をお願いして、アンカーをうってきた。
「たとえば、ぼくがデザインなどの仕事をするときに、いわれた通りつくるA案、ちょっとアレンジしたB案、そして、依頼されていないけど、ほんとは自分がいいと思っているS案を提案する。そうすると、はじめはB案が選ばれることが多い」

たしかに贈り物をするように仕事をすると、信頼いただけるから仕事を進めやすくなりますね。
「そう。よそでもA案とB案を出すところはあるのよ。でもA案とB案だけでは、B案が選ばれるってことがなかなか起きない。A案B案S案を出すから、B案がとても理解できたり、共感できたりするわけよね」
「それに実らなくても、S案をつくることは楽しいよ。結局自分が楽しまないと。そうすれば、エンドユーザーも楽しめるし、商売にもなる。その順番なんです。自分のやりたいことを見つける。自分がここでなにしたいのか、っていうのがまずはじまりで」
たしかに言われたことしかしなければ、いつまでもA案しか実現できない。それではいつまでも下請けから抜け出せない。
でも自分がやりたいこと、やったらいいことを考えて、先回りして提案するから、自由にデザインできるようになっていく。
もうひとつ、自分のやりたいことを仕事にするために取り組んだのが「組織を変える」ことだった。
問屋町から車ですぐのところにルクスのオフィスがある。実はもともと明石さんはREIDEXという会社を経営していた。クロスという会社と合流して、ルクスという会社が生まれたのだ。
クロスの代表であり、ルクスの会長である皆木さんにもお話を聞いた。
今にいたる歴史を話していただいた。
「30年前は代理店のデザイン室にいて。そこから独立して、はじめはフリーで働いていたのだけれど、ローカルにいながらひとりでデザインの仕事を続けていくのは限界があってね」

さらにクロスという会社を立ち上げて、企画デザインの仕事を広げたり、上海に移住するなどして、海外の仕事も増やしていった。

「社長がいなくなっても続く組織をつくりたかった。そうすればデザイン屋と呼ばれるんじゃなくて、デザイン業として成り立つんじゃないかと考えた」
そんな皆木さんと明石さんが出会ったのは、必然だったのかもしれない。もともと不思議な縁があったそうだ。
明石さんが皆木さんと出会った経緯を話してくれた。
「ぼくは代々、商売人の家系なんだけれど、小学校の卒業アルバムにグラフィックデザイナーになるって、将来の夢を書いて。それからグラフィックデザイナーになることしか頭になかったの」
「親の仕事を継ぐことは課せられていたのだけれど、じいさんには『自分が喜び、人を喜ばせることがどれだけ大切なことか』ということを教え込まれていて」
はじめは就職して、デザインや企画、マーケティングなどを経験する。そして2002年に独立する。
その5年後に明石さんは皆木さんと出会うことになる。
「会社を興して5年目のとき。今からちょうど10年前に知り合った。そのときに『おれたちの業界って将来性ないよね』っていう話をしたわけ。それで『ちょっとお前、おれと一緒にやらない?』みたいな話をはじめて出会ったときにされたんだよね」

はじめての出会いから10年。皆木さんが中国にいることもあって、ふたりは再会することはなかった。
「それで10年経って、ばったり再会するわけですよ。そしてまた『将来性のない業界だな』って話をして、『おれと一緒にしない?』って言うの。デジャヴのように」
実は皆木さんと明石さんの出会いは、この2回だけではなかった。それは明石さんが子どものころにさかのぼる。
「ちいさいときからデザイナーになりたい、って言っていたから、じいちゃんに連れていかれたんだ。『これがデザイン会社や』と」

そのデザイン会社が皆木さんのところだった。そして皆木さんは「うちの孫を頼むぞ。」と言われていたそうだ。
そんなご縁もあり、そして同じようにデザインの仕事に課題を感じていたこともあって、ふたつの会社は合流することになった。
組織を合わせることで何を目指したのですか?
すると会長の皆木さん。
「バブルがはじける前から、無理がくることは予想していたんですよ。たとえば、工場がものをつくるだけじゃなくて、自ら販路を考えてものを売っていくようなことをしなければいけないとか」
「そのサポートをするためには、デザインだけじゃ難しい。商品開発から、広告、販売、それからルートを開拓していくとか、そういうことも必要だと思ったんです」
そのために、いろいろな役割を分担して対応できる組織をつくらないといけない。
いろいろな得意分野をもった人が集まれば強い組織になるし、それぞれの能力を活かすことができるわけだから、みんながやりたい仕事ができるようになる。
それに大きな組織になれば、自ら事業を立ち上げることもできる。より自由にはたらくことができるようになる。
実際に働いている人の意見も聞いてみる。
黒川さんはもともとアパレルやデザイン、マーケティング、そして行政でも働いていた方。その後、クロスに入社して今にいたる。
実際に働いてみてどうでしたか。
「風通しがいい会社だなあって。お互いがどんなことをやっているのかわかるし、自分が担当した仕事がどういう結果になるのかもわかる。ぜんぶつながっているんだなって」

「自分で考えて行動できる人ですよね。わからないからすぐ聞く、じゃなくて。じゃあ自分だったらどうするか、っていう答えをもって聞くのと、丸々答えを聞くのでは全然ちがうと思うので」
会社という環境は用意されている。あとは働いている人が考えながら、一つひとつの仕事を進めていく。
それは大変な仕事だと思うし、裏を返せばチャンスでもある。
最後に明石さんに、どんな人と働きたいか教えてもらいました。
「今までグラフィックデザインやっていたけど、将来性のなさに愕然としている人。そういう人には面白いと思う。それで、まちづくりしたい人とかね、ブランドを立ち上げたいとかね、そういう人がいいな。明確な野心がある人」

(2015/6/4 ナカムラケンタ)