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「一見毎日同じ作業のくり返しなんですよ。米を洗って、蒸して、麹を入れて。ただ、米の具合や天候によって都度加減を変えていくんです。どれだけ意識を持ってつくれるか。いい酒をつくるのはくり返しじゃなくて、積み重ねなんですね」佐賀県に鍋島という日本酒があります。2011年にIWC(国際ワインコンテスト)の日本酒(SAKE)部門で最優秀賞に選ばれたことで、一躍国際的にも有名になりました。
現在では欧米そしてアジア圏への輸出も増えています。
味噌、醤油そしてお酒。マンガ「もやしもん」が人気を博すなど発酵の文化は注目を浴びつつあるように思います。
一方でその現場は日々全身を使い、汗だくで走り回る地味なもの。
佐賀県鹿島市に富久千代(ふくちよ)酒造を訪ねました。
ここで、日本酒をつくる“蔵人”を募集します。
佐賀空港、もしくは福岡空港から電車で約1時間半。
肥前浜の駅を降りると、周辺には約10の酒蔵が軒を連ねる。ここは、地元佐賀では酒のまちとして知られるところ。
多良山系からの豊かな水。そして古くより米づくりが盛んなことから、酒づくりが行われてきました。
駅から歩いて5分ほど。
富久千代酒造の玄関に入ると、蔵人のみなさんが迎えてくれた。
はじめに、代表の飯盛(いいもり)直喜さんから、富久千代酒造の歩みをうかがう。
「はじめは継ぐつもりもなかったんですよ」
飯盛さんは、大学で東京に進学。最先端のもので溢れる東京での暮らしは“性に合っていた”という。
そのまま東京で就職。
ある日、先代の謙次さんの事故をきっかけになくなく、鹿島市へと帰郷することに。
転機となったのは、鹿島市の将来を真剣に話し合う先輩たちに出会ったこと。
すすめられるままに入った青年会議所で地域づくりという視点を持つようになる。
「鹿島に育てられたんですね。この経験が鍋島の誕生につながっていきます」
杜氏と聞いて口べたな職人をイメージしていたけれど。話をうかがうとイメージががらりと変わる。
飯盛さんが帰省した1987年。
当時は、酒類小売りの免許が緩和され、ディスカウントストアやコンビニで酒の販売がはじまった時代だった。
「そうした店舗では、売れ筋の商品しか扱わないので、富久千代のようなマイナーな酒は、そもそも店頭に並びません。これはまずいな、日本中から小さな蔵元がなくなる、と思ったんです」
そこで訪ねたのが、北九州市にある地酒専門店だった。
地酒専門店とは、オーナー自ら選んだ地酒を取り扱う酒のセレクトショップ。
「小さな蔵の目指す姿を一緒に考えてもらう中で、佐賀県を、九州を代表する日本酒をつくろうと決めたんです」
そして誕生したのが“鍋島”。
鍋島という銘柄は、公募による。かつての佐賀藩の領主であった鍋島家からいただいたもの。
販売を開始したのは1998年。直喜さんが帰郷して11年目のことだった。
「佐賀で小さい蔵元が生き残っていくために、僕らが成功しないといけない。その思いが強かったですね。佐賀が日本酒の産地として認知されるようになれば。佐賀と聞いて色々な銘柄の名前が浮かんでくるようになれば、と思いました」
後に鍋島は、様々な賞を受賞して知名度を高めていく。
2004年からは7年連続で全国新種品評会の金賞受賞。そして2011年にはIWCの日本酒部門で最優秀賞を受賞した。
けれど、その道のりは、決して平坦ではなかったという。
「銘柄を鍋島に切り替えた当初は、売上げがものすごい勢いで落ちていきました。給与も下げざるを得ないなか、蔵を去った従業員もいます。さらに杜氏が病気で倒れたんですね。売れる土地があったもので処分してお金にして、なんとか酒づくりをして… 底を這うような時期でしたね」
「でも、必ず成功すると思っていたんですよ。なんの根拠もなかったんですけどね。そう思っていました」
厳しい経営状況の裏には、こんな思いがあった。
当時佐賀の蔵元の多くは、地元には手頃な普通酒を販売していた。そして、比較的高価な特定名称酒は東京へと展開していた。
そうしたなか、飯盛さんは、まず地元佐賀に特定名称酒の市場をつくることを目指した。
佐賀の小さな蔵元が生き残るには、地元における市場が必要だと感じていたからだ。
特定名称酒とは、吟醸酒、純米酒、本醸造酒からなる。
たとえば吟醸酒とは、40%以上を精米して、1ヶ月以上にわたり低温で発酵をさせ、手間ひまかけてつくられたもの。
4年間かけて地元で足場を固めた後は、東京への展開を果たす。
けれど、九州には焼酎のイメージが強く、滑り出しは順調とは言えなかった。
佐賀そして東京において、着実にファンがついてきたのは地酒専門店のお陰だという。
「僕ら蔵元は一生懸命つくる。そして地酒専門店さんは、酒づくりの思いを伝えつつ販売してくれる。いい酒屋には、いい飲食店さんがついているんです。鍋島はジワジワと広がっていきました」
ここからは酒づくりの現場について、若い蔵人も交えて話をうかがう。
今回は蔵の将来を見据え、若手蔵人の募集を行う。
はじめに、ふたりを紹介したい。
前回の募集で今年の春から新たに蔵人となった、堂満さん(写真左)と鶴田さん。
堂満さんは東京農工大学出身。鶴田さんは福岡にあるIT企業の営業職から転職した。
鶴田さんを中心に話をうかがっていく。
酒づくりの暦は9月がはじまり。最盛期を迎えるのが12月から1月の期間。鍋島は6月半ばまで酒づくりにいそしむ。
休日の体系も独特だ。
「基本的には正月休みもありませんね。酒づくりの間は、休みが週1日です。その代わりに、7月から8月にかけて、1ヶ月前後の夏休みがあります」
蔵人のみなさんは現在、海外に行ったり、四国を巡ったりと各々の夏を過ごしている。そして秋になると蔵へ戻っていく。
酒づくりは朝8時に出勤、17時過ぎには仕事が終わるという規則正しい日々。
ただし、勤務時間中はとにかく体力を使うという。
「今期1年は毎日筋肉痛でした。慣れないこともあって、疲れがなかなか抜けなかったですね」
酒づくりの工程をうかがっていく。
酒ができるまでに経る工程は10ほど。これほど複雑なつくり方の酒は他にないかもしれない。
「ワインと同じく醸造酒に分類されます。けれど米の主成分はデンプン。アルコール発酵に必要なブドウ糖を含まないため、その工程は複雑なものになるんですね」
はじめに精米。富久千代酒造では酒づくりに適した精米済みの酒米を購入しているが、酒造りは精米の段階から始まっている。
「鍋島の大吟醸では65%を精米して削ったものを使用します。考えてみれば贅沢な飲料ですね」
続けて洗米、そしてムラなく水を吸わせる浸漬(しんせき)。
「一見単純な作業に思えるかもしれません。米の状態や天候に仕上がりが左右されるんですよ。経験に基づく調整が求められるところです」
次に甑(こしき)と呼ばれる道具で米を蒸していく。
蒸し米に麹(こうじ)菌を蒔いていくのが、室(むろ)とよばれる部屋で行われる麹づくり。
日本酒独特の工程であり、麹の出来により、酒の味を大きく左右するところ。
その後は、仕込みと呼ばれる工程に入る。
酒母、麹、蒸し米をタンクに入れての醪(もろみ)づくり。この醪を絞り、酒と酒粕に分けた後、ようやく瓶詰めの過程に移る。
仕込みタンクに醪を移してから、完成までに約1ヶ月を要する。
「酒づくりは、つくりの輪が大切です。蔵人同士コミュニケーションを取り合いながら進めていくんです。だから、これから入る人は、仕事に限らず、まずは単純に気の合う人がいいですね」
入社すると、酒づくりの一連の工程を身につけていく。
「酒づくりは、一つの工程を極めるより、全体を見て仕事をすることが求められます。たとえば蒸らしの失敗が続くときに、洗米が原因ということもあります」
気づくことが大切になる。
たとえば麹づくり。
「麹の音や匂い、麹を触った感覚。わずかな違いを見逃さず『おかしいな』と感じることが大事です。漠然と作業をくり返すのではなく、日々五感を働かせて、経験を積み重ねていくんですね」
そんな酒づくりはやっぱり難しい、と鶴田さん。
目に見えないものを相手にしているだけに、試行錯誤しながらどこまでも追求していけるこの仕事が楽しいそうだ。
「前職は営業職だったので、一匹狼のようにひとりでどんどん切り開いていかないといけなかったんですけど、ここの仕事はひとりでどうこうできない。いろんな人の助けがあっての仕事ですね」
「ここへ来る前は職人から怒鳴られるイメージがあったんですけど、どちらかといえばみんなと冗談を言いながら、楽しくやっているのがここの職場です」
とはいえ、とにかく大変な仕事だという。
毎日同じ人と顔を合わせて、一日中汗だくになりながら麹をつくったり、出荷のための一升瓶のケースを運んだり。
酒づくりに幻想を抱いている人だと、なかなか続かないそうだ。
日々、酒の状態を見て、考える。作業は一見地味かもしれないけれど、その一つひとつの積み重ねによって鍋島はつくられていく。
最後に飯盛さんは、9月からはじまる新年度の酒づくりについて聞かせてくれた。
「鍋島のコンセプトは、“フレッシュなお酒”です。より鍋島らしさを出すためにはどうしたらよいか。火入れの方法を変えたり。いまでも日々、細かい改善点があります。」
新年度も、新たな製法を取り入れていくそうだ。
たとえば今後は機械を導入していくことも考えられるという。
機械よりも手づくりの方がおいしい。漠然とそんなイメージがあるけれど。
「伝統はずっと変わらないイメージがあるかもしれませんね。けれど、時代に合わせて形を変えてきたんです。機械を入れている蔵のお酒も、おいしいんですよ。要は、どれだけ酒を理解して、合ったつくりをしているかということ。これからやってくる人にも一つひとつどうしてだろう、と考えながら酒づくりに臨んでほしいです。」
(2015/8/31 大越はじめ)