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取材で全国各地を訪れると、ここはいいところだなぁと思う地域がたくさんあります。緑がたくさんで、食べものは美味しくて、人は優しい。
だけど一方で、10年後や20年後、このまちは一体どうなってしまうのかと思うこともよくある。

美しい棚田の風景のなかで、約 300人が暮らしている。
ただ、中心市街地から車で30分ほどの距離にあり、アクセスがいいわけではありません。高齢化が進み、休耕田になった棚田も増えつつあります。
これから一之貝をどうしていくのか。地域おこし協力隊として自らの仕事の可能性を探りながら、地域のこれからを地元の人と考え、形にしてくれる人を求めています。
一之貝を訪ねたのは2月初旬。
長岡駅前では道路脇に寄せられる程度だった雪も、一之貝では2m近く積もっている。

暖かい季節は棚田で稲を育てる一方、家のあちこちに蚕を飼っていた。雪深い時期になると藁でミノや縄を編んだり、蚕の繭から糸を紡いだり、一之貝絣(いちのかいかすり)という織物をつくる人もいたそう。
「昔は田んぼや養蚕を手伝いに、近くの小千谷や見附から200人くらい来たって話なんですよ。女の人たちは家事の手伝いをして、男の人は朝から晩まで田んぼへ行ったり木を切ってきたりしていたと」
「私の先祖も見附から嫁さんが来ているんです。昔は刈谷田川が氾濫するんで、上流にいる農家にひとり嫁をやっておけば、自分たちのとこが水害にあったときに多少食料を援助してもらえるだろうとね」
そんな話をしてくれたのは、一之貝集落協定の佐藤徹さん。
一之貝集落協定は地元の有志で結成された団体です。農業活動を中心に、一之貝の将来を考えさまざまな活動を行っています。

だけど、いまは養蚕をする人や一之貝絣を織る人はいない。
一方でいまでも地域でずっと続いているのが、一之貝の原風景でもある棚田を使った農業です。
なかでも一之貝集落協定の代表の茨木徹夫さんは、アイガモ農法でお米をつくっています。

「塩谷っていうとこに住む人が、アイガモ農法は草取りをやらんでもいいし、米はよく育つと、ばかいい話をしていてね。じゃあこんど説明せいやって、自分もはじめてみたら引っ込みがつかなくなって。教えてくれた本人はとうに辞めたのにね(笑)」
茨木さんは現在、約4反の田んぼでアイガモ農法をしているという。
アイガモ農法って聞いたことはあるけど、どんな農法ですか?
「よく人には『雑草を食べてくれるんでしょ?』って言われる。たしかに少しは食べるけど、見ていると足の水かきでバタバタ騒ぐことで草が地面に潜っていくみたいで」
「俺なんか、植えてから田んぼの中にはほとんど入らない。あとは連中に任せて、秋に実る米が良かろうが悪かろうがしょうがないと(笑)」
茨木さんは千葉からヒナを買い取り、家で約2週間育てたあと、1反あたり約20羽のアイガモを放すという。
田んぼの横にはアイガモ専用の小屋が置かれ、まわりは害獣対策にネットや柵で囲われている。
秋になればアイガモはまん丸に太り、意外にも1年も経たずしてお役御免になるそうだ。冬を越せばその間のエサ代がかかってしまうし、春になって田んぼに放しても成長して大きくなった体が若い稲を倒してしまう。だから、最後はアイガモを肉にして食べることもある。

「よく言われるのが、一之貝の米は魚沼に負けねえって。けど、その米をいくらで売っているかっていうと、農協よりちょびっと高いだけでさ。農協の米の買取価格が下がれば、やっぱ俺らも下げなきゃダメかなって」
茨木さんがつくったお米も、一般的なお米とほぼ変わらない値段で買い取られています。せっかくアイガモ農法でおいしいお米を育てているのに、その価値に見合った価格で売れていません。
今回募集する人は、一之貝での定住を目指して最大3年間活動してもらうことになります。
ただ住むためにはやはり仕事が必要。ここに住む人は中心市街地の職場へ車で通っている人も多いけれど、できれば最長3年の任期のなかで一之貝での仕事を見つけてほしい。
茨木さんのアイガモ農法はひとつの可能性だと思う。ほかのお米と差別化し、付加価値をつけて販売できれば、専業農家としてやっていけるだけの収入を得られるかもしれない。
使っていない田んぼや農機具はたくさんあるから、貸してくれる人はすぐに見つかると思う。さらにその風景を見ながらお米を食べる場所をつくることもできるかもしれない。
農業が再び一之貝で盛り上がれば、後に続く人が増えて、貴重な棚田の風景を残すことにもつながります。
「一之貝で何ができるかっていうのを見つけてほしい。ここに住んでいる連中なんて、住んでいる範囲が決まって視野が狭いもんだからね」

茨木さんに続けて伺うと、一之貝には毎年季節ごとに学生や若者が遊びに来るのだそう。
受け入れは2009年にはじまり、これまででなんと延べ100人以上がやって来たのだとか。どうして若者が集まるようになったのだろう。
「新潟の中越地震後に、ここに復興支援員の人が入ってこられて。その人が東京にある学生団体『地域づくりインターンの会』と連携して、学生インターンを一之貝に呼び込もうってはじまった。おら、インターンなんて何だか分からんだけど、学生が来るんならいいことだって」
茨木さんは学生を受け入れるために、親戚の方が持っていた空き家を用意し、ここで4人の学生が自炊しながら2週間を過ごした。
「毎日毎日学生の相手をして、朝早くから年をとった人の家に行って、一之貝の昔話を一緒に聞いたりとか、ちょうど時期がお盆で夏祭りをやるから、その準備や太鼓叩きの練習をしたりして」
「そういうのが楽しかったみてえだな。飲めや飲めやで、よう飲んだよ(笑)」

社会人になった今でも、ほぼ毎年通い続けている人もいるのだとか。
集落の人も次第に若い人と馴染むようになり、お互い親戚のような、第2の故郷のように感じている人もいる。
「俺が入院してたとき、『じいちゃん大丈夫?』ってメールがあって。はて誰かなと思ったら、やっぱりここへ来ていた子。いまでも電話すると『おい、じじいからだぞ』って言うんだ」
なかでも一番一之貝に馴染みのある方を茨木さんに紹介してもらい、東京でお会いしました。

当時はまだ大学1年生。出身は横須賀で、自分に田舎がなかったことから地方に興味を持ったのだそう。
「だから最初は軽い気持ちで行ってみたいなって。2週間で何をやるってミッションがあったわけじゃなかったから、逆にいろいろ出来るんじゃないかなって思いもあって」
はじめての一之貝の印象はどうでしたか?
「うそ!?何もない!(笑)茨木さんに会っても、最初は方言が聞き取れなくて、何言っているんだろうって」
「それからいろんな人に会わせてもらって、おじいちゃんおばあちゃんに蚕を飼ってた話を聞いたりとか。ちょこちょこ顔を出していると野菜をもらえるようになったり、あとのほうになって料理を届けてくれる人もいたりして」
ちょっとした気遣いや優しさも、青木さんにとっては新鮮な体験だったそう。短い間だけど、みんなからすごく良くしてもらった。そんな印象に残る2週間だった。

「そういうのもあったから、この2週間だけで終わっちゃうのはいやだなって。最後に私たちが成し遂げたことがあるわけでもなかったので、一緒に行った4人で話して、もうちょっと何かできたらいいねと通いはじめました」
その年の冬には、大学の友人も連れて雪上運動会に参加したのだそう。集落の人と話して、昔やっていた行事を復活させたのだという。

学生を毎年受け入れるごとに、一之貝を訪れる人は増えて行く。一之貝で知り合った若者同士がタイミングを合わせて、マイクロバスを借りて大勢で遊びに行くこともあった。
「行くときに何をやるか決める会議がいつもあって。一之貝の人ともやりとりするなかで、昨年は利酒大会をやったんですよ。新潟の日本酒を、銘柄を隠して並べて。意外と地元の人のほうが分からないものなんです(笑)」

「一之貝は何かしようとしたときに、話を聞いてくれる人たちがいるのが貴重というか。私は一番最初、何かできると思って一之貝へ行ったけど、何もできないんだなってすごく思った。でも、協力してくれる人はどんどん増えていったんです。みなさん自分の仕事があるなか、運動会とかの準備から運営の手伝いまでしてくれる」
「自分ひとりでゼロからはじめようとすると大変だと思うけど、誰かがはじめようとしたときに、じゃあ一緒にやろうかって思ってくれる人たちがいるんですよね。そういうところが一之貝のいいところなんじゃないかなって思います」

茨木さんは、これまで学生に貸し出していた親戚の空き家を改装してもらってもまったく構わないという。
学生と一緒にリノベーションしてゲストハウスをつくってもいいかもしれないし、グリーンツーリズムやアイガモ農法の農業体験ツアーも企画できるかもしれない。
これをやってみたいと話してみれば、一之貝協定の茨木さんや佐藤さんをはじめ、地域の方々が協力してくれるはず。
まず言い出しっぺになって動き出してみると、いろんな人と一緒に先を開いていけると思います。
(2017/3/9 森田曜光)