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「あぶり」という食べものをご存知でしょうか。その名の通り、獲れたての魚を桜や樫の木であぶった、魚の薫製です。
100年以上も前から保存食として三重県尾鷲市梶賀町で食べられてきた、この町独自の料理です。
2009年からあぶりの販売をはじめると、味やめずらしさから話題を呼び、年間1万本が売れるまでに。
町の水産加工の先行きが曇るなか、あぶりは明るい道筋のひとつでもあります。
今回はあぶりを軸に、梶賀町で事業起こしをしてくれる地域おこし協力隊員を募集します。
東京から新幹線で名古屋へ。ここから特急電車に乗り換えて尾鷲駅へと向かう。
東京からかかった時間は4時間ほど。意外に早く尾鷲駅に到着すると、改札の外で待っていてくれたのは、尾鷲市役所の柳田さんと尾鷲商工会議所の中村さん。
「また尾鷲らしいときに来ましたねぇ」の言葉とともに迎えてくれた。
この日、尾鷲の空は雨模様。雨が強く地面を叩いていた。
「『尾鷲の雨は下から降る』って言われるくらい1回に降る雨の量がすごいんさ。日照時間は東京と変わらへんのやけど、東京の3倍くらい雨が降るんですよ」
あいにくの雨だと思っていたけど、それが尾鷲らしいと言われたら何だか得した気分。
柳田さんも中村さんも、尾鷲で生まれ育った生粋の地元民だという。
梶賀町へと向かう車の中、まずは尾鷲についてうかがう。
「飲屋街が多いんですよ、尾鷲は。いまは減ったけど、昔から遠洋だとか船が入っとって。その漁師らがよく飲んどるんです」
大敷網といわれる大型定置網、底引き網、遠洋。さまざまな漁法で少量多品種の魚が獲れるそう。取材に訪ねた時期は、ガス海老やメイチ鯛がとにかくうまいのだとか。
そんな話で盛り上がりながら、車を走らせること約20分。短いトンネルが続く道に入った。
トンネルを抜けるたびに、漁村が見えてくる。
「浜が山で隔てられているもんで、それぞれの町で独自の文化が残っているんですよ。とくに方言なんかは、隣町同士でも面白いくらい全然違って」
しばらくして梶賀町に到着。ここでつくられるあぶりも、この町にしかない独自の料理だ。
柳田さんや中村さんをはじめ、同じ尾鷲市に住む人たちでさえ、あぶりの存在自体を知らなかった人がたくさんいたという。
あぶりは、獲れたての魚を塩で味付けして、桜やウバメ樫の生木であぶった魚の薫製。
100年以上も前から保存食として、梶賀町の各家庭でつくられてきた。
「昔は、市場で捨てられるような魚を拾ってきて、うちのばあちゃんがあぶって、昼ごはんのおかずにしたりしていましたよ。燃やす木も、まわりの山から自分たちで調達してね」
そう話してくれたのは、「梶賀まちおこしの会」代表の中村美恵さん。
「梶賀まちおこしの会」ではお母さんたちが中心となって、2009年からあぶり商品の企画・販売を行なっている。
「それまでは梶賀で当たり前のようにつくって食べていたものなんですよ。売れない魚を人様に売ってお金にしようなんて滅相もないという考えで、やる人はほとんどいなかった」
「だから販売をはじめるときも、梶賀中の人たちから『こんな魚をそんな値段で売って、あんたらは詐欺師か!』って言われましたよ(笑)」
地域活性化を積極的に進める尾鷲市から、梶賀町の地産品を尋ねられたのが2009年。
あぶりはどうかと提案され、当時の婦人会が商品化して販売することになったのがきっかけだったという。
初年度は、竹串に刺した20匹の小サバのあぶりを販売。100本すべてが完売した。
驚きと自信を胸に、翌年からさまざまな取り組みに挑戦。イサキやタカベなど、ほかの魚のあぶりも販売したり、パッケージの改良なども行なった。
これまで町外にほとんど知られることのなかったあぶりは、その深い味わいから、次第に「おいしい」と評判を呼ぶように。
メディアにも取りあげられ、あぶりを求めて大阪や名古屋などから梶賀町にやってくる人もいるそうだ。
また販路を増やし、今後は東京駅構内でも販売される予定。
昨年は1万本以上の販売数を達成した。
あぶりは、尾鷲の魚の価格に変化を及ぼしているという。
「昔は捨てられる雑魚をタダでもらっていたんです。だけど、あぶりが売れるようになってきてから取り合いになって、お金を払うようになって。あぶりで魚の価値が上がってきたんですよ」
また、あぶりの販売を快く思っていなかった町内の人も、だんだんと理解を示すようになったそう。
「『来年のあぶりの作業に、わたしも入れといて』って協力してくれる人も増えてきました。新しいこともやってみようと、動き出しやすくなっていて」
あぶりの販売は好調だけれど、手間の割に手元に残る利益はわずか。より価値を高めて販売しようと考えているという。
たとえば、あぶり同様に昔から各家庭でつくられている干物。あぶりとセットにして販売することができる。
それとwebサイト。通販だけでなく、梶賀の魅力や情報も伝えるページをつくることで、より広く発信できればと考えている。
ほかにも、町内にあぶりや新鮮な魚を食べられる食堂をつくろうという話があがったり。
やりたいことも、やれることもたくさんあるけれど、町のお母さんたちだけでは手が回らないのが実情。みんなそれぞれに自分の仕事や家庭を持っている。
また、主軸となるあぶりの生産は、そのときの漁の結果に大きく左右される。魚が獲れない年の販売数は2000本ほどに落ち込むという。
「いろんな課題があるんですよね。だから、単にあぶりの大きな工場をつくって、いっぱい売れるようになったらいいというわけではないんです」
目指すのは、あぶりをきっかけに魚を使った新しい商品や事業をつくること。若い人が梶賀町で根付くような基盤づくりができればと思っている。
今回はそれを担う人を募集することになる。だから、仕事も具体的なようでいてそうじゃない。そもそも地域にとっての幸せは何なのか、といったことから探ることになるかもしれない。
「わたしは自分で民宿をしているし、忙しいんですけど。若い人が来てくれたら、その人の身が立つようなお手伝いがしたいですね。あぶりを販売させてもらっていますけど、これで生活していこうという気は全然ないんですよ。人様を助けられたらいいなと、わたしは思ってます」
人のためになること。昔からそういった活動を?
「いいえ、わたしはずっと商売をしながら、子どもを育てて、主人の親ふたりも介護していました。主人のお父さんは、大敷網の社長もしたことがあるし、梶賀のハラソ祭りというお祭りも仕切ったりして。いつも梶賀のことを考えて、毎日梶賀のことを言いよる人だったんですよ。亡くなる1年前、お祭りに肩を抱いて連れて行ったときも、お父さんは『もうハラソを見るのも終わりかな』って言っていて」
「どうしてあの人は自分のことよりも梶賀に熱心なのかなって、亡くなったあともずっと考えて。それで、ふと気づいたんです。人って自分のことだけを考えとったらあかんのやなって」
ちょうどそのころ帰ってきた息子さんに宿を任せることに。自分の時間ができるようになってからは、まちおこしの会の代表を頼まれ、あぶりの販売がはじまった。
「これからは人のために生きてみようかな、という気になったんですよ。あぶりは一生懸命やっているけど、一銭も自分の利益にはならない。でも、そういう人生もいいかなと思ったんです」
中村さんは、どんな人に来てもらいたいのだろう。
「いろんなことを面白がってやってくれたらいいですね。年金生活の暇人が多いですから、その人たちにも楽しんで手伝ってもらうように働きかけたりね(笑)。グルっと見渡せる範囲内の小さな町だけど、その狭い世界の中で面白ものを深堀してくれる人にきてほしいです」
「ただ、これもご縁ですからね。その方がずっと居続けてもらえるのかも分からないですし。だから、ずっと梶賀にいなきゃってこだわらなくてもいいと思うんですよ。もし、ほかに行きたいところができたら、ここで経験したことをよそへ行って活かしてもらえたらと思うんです」
梶賀まちおこしの会のメンバーのひとり、吉田さんもこう話していた。
「ここに来たら大きなことを成し遂げなきゃいけないってことはなくて。わたしたちの気づかない梶賀のよさを発信して、梶賀を知ってくれる人がひとりでも増えてくれたらうれしいです」
「大きな成果が出るのもいいけど、たとえ上手くいかなくても、何かその人にとっていい経験になるんだったら、それはそれでいいとわたしたちは思うんです」
もちろん、やるからには腰を据えて、すぐに諦めず頑張ってほしい。
小さいコミュニティだからゆえに、人間関係で大変な思いをするかもしれないという。
「あぶりをはじめたときも、賛成してくれる人もいれば、『あんなことをはじめて』って言う人もいました。そんな声は、6年経ってやっと落ち着いてきたくらいです」
大切なのは、自分が信じてはじめたことを我慢強く続けること。代表の中村さんもそう話していた。
105軒に170人が暮らす梶賀町。強いコミュニティは時としてしがらみになるかもしれないけれど、生活面では安心できる環境だという。
「子育てにはいいですよ。ほっといても心配しないでいい。町のおじいちゃんおばあちゃんがいますから、情のある子が育ちますよ」
聞いて驚いたけど、鍵をしないのではなく、鍵がない家がふつうにあるという。
陸の孤島が育んだ、梶賀町独自の文化。
あぶりやハラソ祭りについても、吉田さんにもあらためて聞いてみた。
「なぜ桜やウバメ樫をあぶりに使っているかというと、あぶるのに2時間くらいかかるので、火が高く燃え上がる木より、じわじわと燃える木のほうがよくて。昔の人はそういうのを心得ていたんですね。わたしたちも先人たちの知恵を受け継いでこれがいいっていう感じでやっている」
ハラソ祭りはどんなお祭りなんですか?
「これも、梶賀だけのお祭りなんです。いまから200年以上も前にこのあたりが飢饉に陥ったときに、湾に1頭のクジラが入って、そのクジラを獲ってみんなが助かったっていう話があって。そのクジラの供養として、ハラソ祭りというのが残っているんです」
「ハラソっていうのは、かけ声のことだと言われていて。いろんな言われがあるんですけど、はっきりした文献がないんですよ」
ハラソ祭りでは、歌舞伎の隈取みたいな化粧をしたり、長襦袢を衣装にしたりするらしい。
ほかにも面白い話を聞くことができたけれど、どれも由来がはっきりしないという。
これから梶賀町の商品や魅力を伝える上で、この町の歴史・文化を一つひとつひも解くことも、新しい人の仕事になるかもしれない。
まずは町を歩き回り、町に住む人の話を聞くことからはじまるのだろうか。
きっと、あぶりやハラソ祭り以外にも、知られていない梶賀町の深い魅力があると思う。
取材の帰り道、市役所の柳田さんがこんなことを言っていたのを思い出した。
「なぜ田舎がいいと言われるのか、それって言葉でよう伝えられんかったのですよ。東京にも田舎にも人はおるし、それぞれに資源がある。何が違うかねって人と話をしたときに出た結論が、“深さ”が違うよねって」
「縁の深さとか、歴史の深さとか、文化の深さがある。これまでずっと尾鷲で生活してきたけど、それが僕には合っていたんだろうな」
(2015/10/11 森田曜光)