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人の熱が、歴史をつくっている。焼きものを通して人が集う、長崎の波佐見町でそう感じました。

人口15,000ほどの町をめぐると、あちこちにレンガ造りの登り窯が見えます。
この町でかつて大量につくられた「くわらんか碗」という飯碗は日本各地へ運ばれ、今もあちこちで見つかるほど。
波佐見の人々は長く、生活に根ざした器をつくってきました。
そんな町で70年、メーカーさんと波佐見焼をつくり、卸販売をしてきたのが西海陶器株式会社。
今年の春、3代目となる児玉賢太郎さんが会社を継ぎました。
「これまで400年続いてきた波佐見焼を、400年先にも残していかなきゃならない。波佐見の町に暮らし、これからの波佐見を一緒に考えていく人を探しているんです」
デザイナーやメーカーと商品開発する人と波佐見焼の良さをしっかり届ける営業を募集します。
羽田空港を飛び立った飛行機は、1時間半ほどで長崎空港へ到着。
ロビーで迎えてくれたのは、代表の児玉さん。はじめてお会いしても、まったく構えるところのない、おおらかな方。
車に乗り込むと、自己紹介も兼ねていろんな話をしてくれました。

会社はだんだんと大きくなり、現在取引をしている窯元さんは波佐見を中心に全国に150ほど。
窯元を訪ねて、メーカーさんと一緒にものづくりをし、日本国内の百貨店やセレクトショップへの卸販売をしています。
また、別会社という形で、国内には「東京西海」を展開し、海外にもいくつか支社がある。
「私自身は大学を卒業後、アメリカ留学を経て中国支社を立ち上げました。日本に戻ってからは東京西海を立ち上げ、デザイナーさんと組んでテーブルウェアを扱う自社ブランドを展開してきました」

「波佐見焼は今、400年という長い歴史の中で新たな節目を迎えているんです」
どうしてでしょう?
「じつは、波佐見焼は、これまで有田焼として売られることが多かったんです」
有田焼を産出する有田町は、波佐見の北隣の町。波佐見は長い間有田焼の下請けをしてきた。
ところが10年前、有田町から「別のものとして売っていこう」と話が持ちかけられた。
「そこではじめて、波佐見の人たちは『そもそも波佐見焼って何だろう?』と歴史を紐解くことになったんです」
たしかに、有田焼といえば、白い磁器に色とりどりの華やかな模様が描かれたものが思い浮かびますが…。
「そうでしょう。あれはかつて、有田町が鍋島藩という裕福な藩に属していたからなんです。お殿様に献上するために、豪華絢爛な色絵(いろえ)という技法を編み出したんですね」
一方の波佐見町は、大村藩という貧しい藩主。
「献上品というよりは、町の人々の日常使いの器を大量につくってきたん。波佐見は、生活に根ざした器をつくることを得意としていたんです」

「西海陶器で70年つくってきた中にもあるんですよ。職人さんから『昔はこういうものつくってたんだよ』と見せてもらった古い器が、今見てもいいものだったり。それを職人さんから引き出し、あらためてシンボリックな波佐見焼をつくるプロジェクトを進めています」
そこで、デザイナーやメーカーとものづくりする開発と、商品を手渡すように流通させる営業が求められています。
「400年続いてきた波佐見焼が、これから400年先どうやったら続いていくか。あらためて波佐見焼のよさを見つけたいんです」
こういった動きは、波佐見で窯元を継いだ若い人たちを中心に起こり始めているところ。

「焼きものを通して面白い人たちが集まって来ているんですよ」
その一つが、西の原というエリア。
ここは昔から取引のあった窯元さんの跡地。窯を閉じるとき、西海陶器が土地ごと譲り受けたそう。

ちょうどお昼時だったので、以前日本仕事百貨でも募集したことのあるレストランmonne legui mooks(モンネ・ルギ・ムック)にお邪魔することに。
オーナーの岡田さんは、東京出身。日本中を旅する中でこの建物に出会い、その雰囲気に圧倒されたそう。

「先代の代表とは、頭突きのでるような喧嘩をするほどお互い真剣になってお店をつくってきました。『もー、おじちゃん!』みたいなね(笑)」
頭突きするほどですか。
「うん。たとえば俺は、床の小さな段差も歴史を感じるものだから残したくて。代わりに人がサポートすると言っても、バリアフリーのために埋めなきゃダメなんだ、とか。よそから来た若いやつでも、とにかく向き合ってくれた」
すると、児玉さん。
「そう、若い人が何かやりたいと言えば、町のおじちゃんたちは真剣になって考えてくれるんですよね」
焼きものを通して、人も町もじわじわと熱を帯び始めている。
そんな雰囲気が伝わってか、最近では波佐見の町へ観光に来る若い人も少なくないのだとか。
そんな波佐見の町で、西海陶器ではどんな仕事をするんだろう。
西の原を離れ、西海陶器の本社へ向かいます。
お会いしたのは、開発部の福田さん。入社して半年になるそうです。

「当時は、有田焼のシールがつかないと売れない時代でした。でも波佐見の職人って、有田の下請けをしていたこともあって、高級品から日用品まで何でもつくれてしまうんですよね。そこに面白さや誇りも感じていたので、いつか携わりたいと思っていました」
東京のインテリア会社などを経て、西海陶器に入社。
今は開発部で、新製品の開発のほかに、カタログやホームページ、展示会などの広報も担っています。
実は、開発部は児玉さんが代表になったときにできたばかりの部署。
動き方や進め方などは、福田さんたちとこれから考えていくことになるそう。
今は、どんなことをしているんですか?
そう聞くと、開発の話をしてくれました。
「私たちはデザイナーとメーカーさんの中心に立って進めていきます」
まずは情報収集をしてどんなものをつくりたいか考え、そのイメージをデザイナーやメーカーさんと共有していく。
「その共有が大事になってくると思います。とくに、新しい取り組みなので、昔ながらの窯元さんだとなかなか分かってもらえないこともあるんです」
「そんなときは“腹を割って”といいますか、想いをもってコミュニケーションしていくことで、しぶしぶながらでもとりあえず試していただく。ものが出来上がったとき『やってよかった』という声をいただけることもあります」

石を砕いて生地をつくる生地屋、成形する型屋、絵付けし焼きあげる窯元、そして西海陶器のような卸しからなる。
一社で波佐見焼をつくるわけではないから、人との関わりはとても大切。
営業もまた、窯元さんのことを知ることから始まるといいます。
「営業の仕事は、いただいた注文をメーカーさんに発注し、完成したら受け取って卸先へ送ること。一番多いお問い合わせが、納期と品質に関することです。その対応が一番大変かもしれませんね」
そう話すのは、今は開発部課長の近藤さん。これまで営業をしてきた方です。

けれど、メーカーさんが生産できる量は限られている。
「どんなふうにつくっているか知っていれば、『一つひとつ手で絵付けしているので、一日につくれる個数はこのくらいなんです』というように現場をお伝えすることでご納得していただけるんです」
「また、どうしても納品数が足りないとき。メーカーさんとよい関係をつくっていれば『西海さんの頼みなら』と助けてもらうこともありますよ」
そういったローカルなつながりや古くからの歴史を大事にする一面もありつつ、近藤さんは「チャンスも転がっている会社」と言う。
「先代のころからそうでしたが、会社を一緒につくっていこうという雰囲気があって。やりたいと言ったらなんでも任せてくれるし、風通しがいいんです」
「わたしも、入社してすぐ海外の百貨店の絵付けデモンストレーションに行かされたことがあります(笑)。そういうお金に換え難いチャンスは、本社にはかなりあると思いますよ」
聞けば、昨年できたオランダ支社も、ヨーロッパで会社をつくりたいという人がいたからなんだそう。
自分でやりたいことがある人や、何でもやっていきたいという人にとっては、この上ない環境があると思う。
すると、児玉さん。
「スキルはなくてもいいです。とにかく情熱と興味がある人と一緒に仕事がしたいです。」
「それから、やっぱり何百年先を見つめているので、まずは波佐見の町に長く住めるかが大事になってくると思います」
そう言って、遠くスペインから波佐見に移住したクリスさんを紹介してくれました。

「日本の田舎に来たかったんです。こちらの人はヨーロッパ人とは全然違う感覚があって…」
「なんというか、すごく長い目で人生を見ている。目先の利益よりも、どんなふうに人と関わり、豊かになるか。あたたかくて懐かしいあり方が残っていると思います」
そんなあり方は、焼きものがあることによっても育まれているんだと思う。
ふたたび、児玉さん。
「焼きものって、決して派手な業界ではないんです。日々の仕事も地味なものが多いと思う。ただ、焼きものを通じて遠い昔や未来につながれるし、日本だけじゃなくて世界ともつながれると思うんですよね」
「波佐見をどうつないでいくかと考えたとき、一緒にやりたいという人がいれば、ぜひ一緒にやりたい。ここで働けば、400年後にも自分がやったことが刻まれていくような仕事ができると思います」
波佐見に暮らし、時を刻む。
ここでの仕事もまた、歴史をつくるものになるのだと思います。
(2016/11/30 倉島友香)