いろいろな生き方・働き方に出会う場をつくりたい。
そんな想いではじまった「日本仕事百貨」が、8月1日で15周年を迎えることができました。多くのみなさんに支えられて続けることができたと感じています。ありがとうございます。
感染症や戦争など、世の中が大きく変わっていき、ときには積み上げてきた未来が崩れてしまうような現実もあることを知りました。それでも、今日この日を迎えられたこと、ほんとうにうれしく思っています。
今回15周年という節目にあたって、代表のナカムラケンタに15周年を迎えた想いを話してもらいました。
聞き手は、編集長の稲本です。
──8月1日で日本仕事百貨は15周年を迎えます。ぼく自身は5年と少ししかご一緒していないのですが、15年というのは大きな節目なんじゃないかと思っていて。今どんな気持ちなのかというのを、まず聞いてみたいです。
ケンタ:この15年はみなさんのおかげだと思っています。たくさんの方々とのご縁があり、ここまでこれました。ありがたいです。
15年。なんだろうな…
あっという間だった。登山にたとえると、まだ半分も登っていない感じ。
──なるほど…。それは、まだ何か足りないという感じですか。
ケンタ:足りないというよりは「まだまだ登っていきたい」という気持ちが強い。登り続けたいんだよね。今、とても楽しいから。
──ではせっかくの機会なので、日本仕事百貨がどうやってはじまり、ここまできたのか。振り返ってもらってもいいでしょうか。
ケンタ:あんまり振り返るのは得意じゃないんだけれど(笑)。もともとは建築を学んで、不動産の業界で働いていて、28歳でサラリーマンをやめて。そこからいろいろ動いて、サイトを立ち上げたのが29歳のとき。
こういうことをしてみたい!というアイデアは、どんどん出てくる。いくつかやりたいことがあったけど、最後まで残って今も続いているのが日本仕事百貨。自分が仕事を探していて、こんなサイトがあったらいいのに、というのが形になった。
はじめるまではすごく大変だったのかな。無職になったわけだからね。生活もなんとかやりくりしていた。当時は家賃10万円の中目黒の一軒家を3人でシェアして暮らしていたから、それでなんとか。けど、あんまり辛いとは思わなかったな。
──以前、持っていたレコードを売りながら生活してたって聞きました。
ケンタ:あー、そうだね。 学生時代、毎月アルバイトしてお金貯めて買ったレコードが3000枚くらいあって。それを少しずつ売りながら生活費にしていたね。
日本仕事百貨をはじめるときは、ルームメイトに「出世払いで!」って頼んでサイトをつくってもらったんだよ。でもいきなり依頼が来るわけじゃないから、半年くらいはお金を頂かずに取材して書かせてもらって掲載して。あるとき、今夜は飲み会があるというのに、全財産が1万円くらいしかなかったこともあった。それでも飲み会には行ったから「なんとかなる」という感覚はあったんだろうな。
最初にご依頼をいただいたのが、設計施工を手掛けているROOVICE。今もご依頼をいただくほど、長いお付き合いをさせてもらっています。
──なるほど。事務所も転々として、今の清澄白河に辿り着いたと聞きましたが、そこはどんな道を辿ってきたんでしょう。
ケンタ:まず2008年8月1日に日本仕事百貨のサイトがスタート。そのあと2009年に法人化して、株式会社シゴトヒトができた。
最初はシェアオフィスを借りて事務所にして、2011年に青山のマンションを借りて。表参道駅から歩いて5分ほど。根津美術館の手前にあった物件で、家賃10万円くらいで借りたかな。
家具とかにかけるお金もなかったから、持っていた机を運んで、アウトドアチェアを並べて飲み始めて。いろんな人がお祝いに来てくれたり、ソファーや椅子とか持ってきてくれたり。
──当時はもう依頼も来るように?
ケンタ:そのときは、応募者が100人超えるような募集もあったりして、結構反響も大きかったんだよ。サイトのデザインもまだまだ洗練されてなかったんだけど、たくさんの人が見てくれて、クチコミでご依頼も増えていった時期だったと思う。いろんな雑誌とかにも取り上げていただいて。
青山のマンションのあとは、再開発前の虎ノ門にあった空き物件を貸してもらいました。今は虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワーになっている場所。greenzにも相談していて一緒に始めたんだよね。自分たちでも解体したりDIYしたり。
リトルトーキョーって名付けたのもこのときから。都心の真ん中にやりたい放題できる場所がある。いろんな人が集まって、いろんなことを試せる場にしようって。
バーもつくって、ゲストを呼んでイベントもして。楽しかったな。
──虎ノ門のあとが、今オフィスがある清澄白河であると。
ケンタ:ちょうど虎ノ門の契約が終わるときに、今のビルの大家さんが声をかけてくれて。ぼくらのことに興味をもってくれて。もともと壊して建て替える予定だったビルをそのまま使ってみないかって。
それで移ってきたのが2015年。清澄白河にブルーボトルコーヒーがオープンしたときで、自分たちでもペンキ塗ったりタイルを剥がしたりして、翌年に清澄白河のリトルトーキョーがオープン。
こう振り返ると、もちろん日本仕事百貨というメディアの存在が大きいんだけど、青山、虎ノ門、清澄白河と、場所とのご縁が節目になったと感じる。自分自身、場というものが好きなんだろうね。
──場の力っていうのはたしかにあるように思います。今のリトルトーキョーは、清澄白河駅から徒歩3分、目の前に銭湯、隣に中華料理屋さん、屋上からは清澄庭園が望めるっていう、すごくいい場所だなって最初思いました。
今はリニューアル工事中ですけど、コロナ前は1階に飲食店があって2階で毎晩のようにイベントをしていて。人が集まるってすごいことなんだなって感じましたね。
ケンタ:清澄白河に来て7年のうち、3年くらいコロナ禍だったのは大きな出来事だった。時が止まってしまったような感じ。正直、会社を経営してきた中で一番大変だった。
ずっと順調に山登りしてきたのに、足を滑らせて怪我して休んでいたような感じ。ようやく傷も癒えて、また登りはじめることができました。
──では最後に、これからの日本仕事百貨について話してもらってもいいでしょうか。
ケンタ:このコロナ禍をきっかけにいろいろと見直すことがあって。みんなでいろんなことにチャレンジしていきたい。世の中には魅力的な仕事がたくさんあるし、いろいろな生き方・働き方があることを伝えていきたい。ご依頼いただいても、スケジュールが合わなかったりしてすべてに応えきれていないけど、お役に立てることがまだたくさんあると思う。
日本仕事百貨だけじゃない、新しい事業もつくっています。「かこむ仕事百貨」などは、そのはじまりのように感じる。一緒に働くみんなが活躍できる場をつくっていきたい。
11月にリトルトーキョーがリニューアルオープンするのも楽しみ。先行して2階にthe Blind Donkeyもオープンしました。素晴らしい仲間が同じビルにいることはうれしいし、心強いです。
ぜひいらしてください。一緒に飲みましょう。
(2023/8/1 話し手:ナカムラケンタ、聞き手・編集:稲本琢仙)
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