医療や福祉、教育などの現場で働く人たちと話していると学びが多い。
彼らに共通しているのは、まっすぐに人を見ていること。
「患者」「利用者」「生徒」といった役割の前に、一人の人として見る。そして、答えを与えて動かすのではなく、その人自身が感じ、考え、選べるように関わっている。
それは「人をひらく」ということなのではないか。
企業では長いあいだ、人を「労働力」や「消費者」として捉えてきた。もちろん、組織には役割があり、商売には売上が必要だ。
けれど、人は役割だけでできているわけではない。
一人ひとり違う人とどう関われば、その人自身の力が立ち上がってくるのか。医療や福祉、教育の現場には、多くの人が持ち帰れる知恵がある。
そう思うようになったきっかけの一人が、山田治療院の山田剛也(やまだたかや)くんだった。
中学・高校時代の同級生でもある。治療も心地よく、施術中の会話も楽しい。気がつけば、これといった不調がなくても通うようになった。
山田くんは、人の体を「正しい状態」に直そうとしない。
むしろ、「正しさ」をいったん横に置くところから治療を始める。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕のところに来る方で多いのは、やっぱり慢性的な痛みです。10年、20年ずっと腰が痛いとか、何をやってもそのときは楽になるけど、また元に戻ってしまうとか。
そういう人を見ていて、最初にやることは何かというと、その人が自分でやっている「無理」に気づいてもらうこと。
無理といっても、本人は頑張っているつもりがないことも多い。もうその状態をまとったまま何年も生きているから、それが普通になっている。
たとえば慢性腰痛の方って、姿勢が良すぎることが結構あるんです。胸を張って、背筋を伸ばして、腰もちょっと反るぐらいにして。「姿勢は良くしておかなきゃいけない」とずっと体を緊張させている。
本人は「私なんか全然頑張っていません」と言うんだけど、「いや、その姿勢で一日過ごしているだけで、相当頑張っていますよ」という話なんです。
僕自身、古武術をちょっとやっていた時期があって。そこで面白かったのが、頑張るとうまくいかないんですよ。
武術には「居着く」という言葉があります。一つのところにガチッと固まってしまうと、次の動きができない。相手がどう動いても対応できるようにするには、次の瞬間どちらへでも動ける状態でいなきゃいけない。
技をかけるときも、「絶対こいつを倒してやろう」と力むとかからない。逆に、もう無理だと思って半分諦めたぐらいのときに、ふっと力が抜けて技がかかったりする。
力んでいると、先生から「それはただの筋トレだね」と言われたりして。
そういう経験があったので、人の体を見るようになってからも、「頑張ればうまくいく」という考え方って、体に関しては案外そうでもないんじゃないかと思うようになりました。
むしろ、慢性的な症状がある人ほど、やらなくていい頑張りを続けていることが多い。
だから僕は、施術中にこれでもかというぐらい「ちゃんと手を抜いてください」という話をします。
僕が言っている「良い手抜き」は、適当にやるということではないんです。
本当に力を出したければ、その直前には緩んでいないといけない。筋肉も、緩んだものが縮むから力が出る。最高に頑張る直前には、最高に休んでいなきゃいけない。
野口体操をつくった野口三千三さんも、「動いているときに体の半分くらいは休んでいないと、いい動きはできない」というようなことを書いています。
良い動きには、必ず休む要素が入っているんです。
だから僕は冗談半分で、「べきべき、ねばねばをやめましょう」と言ったりします。
こうあるべきとか、こうあらねばならないとか。たとえば、姿勢はこうあるべき、骨盤はこうあるべき、健康のためにはこれをやらねばいけないとか。
今は健康情報がいくらでも出てくるから、みんな自分に当てはめて、「ストレートネックになってる」「骨盤が歪んでる」「猫背になってる」と、自分をずっと採点している。
でも、「そもそも歪んでいることって悪いんですか?」というところから考えたほうがいい。
骨の形は一人ひとり違うし、仕事も違う。野球をやっている人なら、右投げ右打ちの人と左投げ左打ちの人が、同じねじれ方をしている必要もない。
昔の指圧の世界には「大工さんの体を無理にまっすぐに直すな」みたいな話もあったそうです。仕事に合わせてつくられてきた体を、左右対称だから正しいという理由だけで変えてしまうと、かえって仕事がしづらくなる。
そもそも内臓だって左右対称じゃないですからね。心臓は左にあるし、肝臓は右にある。腎臓だって高さが違う。
お腹が痛ければ、人は自然に前かがみになる。あれだって、そのときの体に必要だからやっている。
僕は、まっすぐであることよりも、必要なときに必要なだけ歪めることができて、必要がなくなればまた変われることのほうが大事なんじゃないかと思っています。
同じ人でも、その日、その場所、その状況によって最適な状態は変わります。
だから「これが正しい姿勢です」と一つの答えを渡すことは、あまりしたくないんです。
「正しい姿勢を教えてください」と言われたら、まず一回、「正しい姿勢という考え方を横に置きませんか」と話してみる。
そのうえで、自分の体が今楽なのか、動きやすいのか、気持ちいいのかを感じてもらう。
ところが、それが案外難しい。
外側に正解を探すことにはみんな慣れているけど、自分が今どう感じているかを確かめることには慣れていないからです。
だから、余裕が必要なんですよね。
余裕がないと感じられない。
頑張ることや、正しいこと、こうしなければということで頭がいっぱいだと、自分の体が出している小さな信号に気づけなくなる。
ぎっくり腰だって、本人は「突然なりました」と言うけど、たいていはその前に黄色信号がいくつも出ている。ちょっと背中が張っていたり、なんとなく動きづらかったり。
でも、それを無視することに慣れてしまっている。
僕は半分冗談で、「頑張らない、ちゃんとしない、落ち着かない」という三原則を言うことがあります。
もちろん頑張ること自体が悪いわけじゃないし、ちゃんとすることも悪くない。精神的に落ち着くのもいい。
ただ、それが一つの状態として固定されて、「ずっとそうしていなければならない」となると、体はしんどい。
学校でも「ちゃんと座りなさい」「動かないで」「目の前のことを頑張りなさい」と言われますよね。でも生き物として考えたら、ずっと同じ姿勢で座っているほうがかなり特殊です。
まず、自分がどれぐらい頑張っているのかに気づいて、時々そこから離れてみる。
それだけでも変わる人がいます。
10年間ずっと腰が痛かった人が、何回か来るうちに、「座っていても平気になりました」「一日働いても大丈夫でした」と、どんどん変わっていくこともある。
一方で、一年ぐらいかけてゆっくり変わる方もいる。
何が違うのかは、僕もまだ全部はわかっていません。
その人の考え方の柔らかさもあるだろうし、生活環境を変えられるかどうかもある。でも結局は、その人自身の体が「こっちのほうがいい」と納得できるかどうかが大きいんだと思います。
だから、外から「そっちは間違っている。こっちが正しい」と変えようとしても、また元に戻ってしまうんですよね。
本人が「あれ、こっちのほうが楽かもしれない」と実感する必要がある。
施術する側としては、そのきっかけを手を変え品を変え用意する。毎日実験しているような感じです。
もちろん、そんな悠長なことを言っていられないときもあります。
ぎっくり腰で動けないとか、半年も激しい頭痛で仕事にならないとか。そういう状態の人に、「自分の感覚をじっくり観察してください」と言っても無理なんです。
そういうときは、施術者として介入する度合いを上げます。
スカイダイビングでインストラクターと一緒に飛ぶようなもので、「うまくいくと体ってこんな感じなんですよ」という状態を、先に体験してもらう。
ぎっくり腰なんかは、体が「ここを固めて守らなければ死ぬ!」とパニックになっているような状態です。
泣きわめいている子どもに、「もう戦いは終わったから大丈夫だよ」というように、少しずつ緊張をほどいていく。
その人が今どの段階にいるのかによって、関わり方は変わるんです。
「自分で感じてください」が、ある人にとっては自己決定を促す言葉になるけど、別の人にとっては単なる突き放しになる。
そこを見なきゃいけない。
僕は最終的には、施術を受けに来る人にも上達してほしいと思っています。
痛くなるたびに僕のところへ来なければ何もできない、ではなくて、「前にこんな話をされたから、今日はこれを試してみよう」と、自分でちょっと工夫できるようになっていく。
僕の感覚では、答えを一個ずつ渡すというより、便利な工具をいくつか渡している感じです。
この工具とこの工具を組み合わせたら、今回の困りごとは自分でなんとかできるかもしれない。
何をしたらいいかわからない時間って、実は結構大切なんですよ。
今は、手順を1から10まで全部教えてくれるサービスが親切だと思われがちです。でも、全部用意してしまうと、その人自身が考える余地がなくなる。
これは僕自身が教わってきた経験も大きいです。
施術の学校に、ものすごく意地悪な先生がいたんです。
「こういう症状の人には何をしたらいいですか」と聞くと、絶対に答えてくれない。
「その人の生活は聞いたのか」「食事はどうだった」「この検査はしたのか」と、質問で返してくる。
答えを用意していっても、また違う角度から質問される。
当時は「なんて薄情な先生なんだ」と思っていましたけど(笑)。
でも今考えると、僕が何を聞きたいかもわかっていたし、その質問に答えるために僕に何が足りないかもわかっていた。
技術を教えてくれた別の先生も同じでした。
頭に触れる技を練習して、先生にやらせてもらおうと近づいていったら、まだ触ってもいないのに、「今のはダメだね」と言われた。
何がダメなのかわからない。
でも話をしていくと、僕は「技を正しくやろう」とすることに夢中で、目の前の人がどう感じているかを見ていなかったんです。
手をどこに置けば技として正しいかを考えているけど、その場所が相手にとって心地いいかは考えていない。
自分自身が力んでいることにも気づいていない。
つまり、正しくやろうとした瞬間に、相手も自分も見えなくなっていた。
それを答えとして説明されるよりも、「今何を考えていました?」と聞かれて、自分で気づいたから残ったんですよね。
だから僕も、施術では少し「絶妙な意地悪」をすることがあります。
本人がちょっと手を伸ばせば届く場所に、ボルダリングの石みたいなものを置いておく。
全部エレベーターで上まで運んであげるのではなくて、自分で一個登って、「あ、こういうことか」とつかんでもらう。
そこを越えた人は、かなり変わります。
今までだったら何かあるたびに「施術に行かなくちゃ」と思っていた人が、自分で対処できるようになる。
問題だと思っていたことが、問題ではなくなっていく。
去年ぐらいからは、トラウマについても勉強するようになりました。
きっかけは、施術をして体の状態としてはかなり変わっているのに、なぜか症状が何度も戻ってしまう方がいたことです。
この業界では、そういう人に対して「治る気がない」とか、「症状を手放さない人だ」と言うことがあります。中には「本人が治らないことを選んでいる」と言う人までいる。
でも、それって本当にそうなんだろうかと思ったんです。
トラウマについて勉強すると、僕にはいろいろ辻褄が合うように感じられました。
トラウマも、ある時点では必要だった防御反応なんじゃないか。
すごく怖いことがあったときに体を固める。あるいは、あまりにも怖ければ意識や感覚を切り離す。
その瞬間には、それが体にとってベストだったのかもしれない。
でも、緊急事態が終わったあとも、そのときの守り方を続けていると、今度はそれ自体が日常生活を邪魔してしまう。
慢性痛にも、似た構造があるんじゃないかと思うんです。
「ここを固めておかないと危ない」「この姿勢を維持しなきゃいけない」という反応が残っている。
さらに深い場合は、「どっちが楽ですか」と聞いても、そもそも「楽」という感覚自体がよくわからなくなっている人もいます。
目で見れば明らかにこっちのほうが動きやすそうなのに、本人にはわからない。
体の感覚そのものに蓋がされているような状態。
そういう経験から、身体側からトラウマに働きかける方法を勉強して、施術の中でも必要に応じて使うようになりました。
僕は心理の専門家ではないので、トラウマ治療自体を専門にやっているわけではありません。
ただ、身体症状を見ている中で、そこに関係がありそうな部分を扱うと、そのあと急に体の調整が進みやすくなるケースがあった。
それまで「自分がどうなると楽なのか」がわからなかった人が、少しずつ感じられるようになることもあります。
そういう経験をすると、やっぱり表面に出ている症状だけを見ていてもわからないことがあるんだと思います。
肩が痛いという人がいる。施術して、腕が120度しか上がらなかったのが150度まで上がるようになった。でも本人は「まだ痛い」と言う。
一方で同じ状態になったら、「こんなに動くようになった」と喜ぶ人もいる。
どちらが正しいということではありません。
その人は何を困っていると思っているのか。何を求めているのか。何なら安心できるのか。
一人ひとり違う。
だから、理論やマニュアルが役に立たないとは思いません。僕自身、いろんな理論を勉強してきました。
ただ、理論をカチッと当てはめすぎると、そこからこぼれ落ちる人がいる。
それが僕には怖くもあり、面白くもあるんです。
人の話を聞くことだって同じで、傾聴のテクニックを身につければ全部わかるかというと、そうでもない。
「丁寧に接すること」がいつでも正解でもないんです。
僕のところには、来たときに「また来ちゃったんですか」「何しに来たんですか」みたいに言うと、うれしそうに「忙しいのに、こんなところ来たくなかったですよ」と返してくる人もいる。
もちろん、誰にでもそんなことを言ったら大事故です(笑)。
その人との関係があって、その人にとってそれが楽だから成立する。
お客さんだから丁寧にすればいい、患者さんだからこう接すればいい、という一つの正解はないんですよね。
結局、僕が施術でやりたいことって、「この人を正しい状態に直す」ということではないんだと思います。
むしろ、その人自身が、自分の体や感覚をもう一度使えるようになること。
自分はいま無理しているのか。楽なのか。これは嫌なのか。こっちのほうが動きやすいのか。
そういうことを感じて、自分で選べるようになる。
僕ができるのは、その邪魔になっているものを少し外したり、必要なら一時的に手を貸したり、本人がまだ気づいていないところに石を一個置いたりするぐらいなんだと思います。
だから、正解を教える人というより、一緒に試行錯誤する人でいたい。
その人の体について一番長く付き合っていくのは、結局その人自身ですから。
施術を通じて、自分の体を「言うことを聞かない困ったもの」として見るのではなくて、「案外こいつも悪くないな」と思って帰ってもらえるようになったら。
それは、痛みがなくなることと同じぐらい、大事な変化なんじゃないかと思っています。