「日本仕事百貨の求人を読んで入社したメンバーが、次期代表取締役社長に就任いたしました」
そんなお知らせを受け取ったのは、3月の終わりのことでした。
差出人の欄には「株式会社中川政七商店」の文字。
中川政七商店といえば、創業302年の老舗。『奈良晒』と呼ばれる、奈良特産の高級麻織物の卸問屋からはじまり、時代の波を乗り越えながら、ものづくりを続けてきた会社です。
302年間、途絶えることなく手渡されてきたバトンを受け取る。想像しただけで、両手にじわっと汗が浮かびます。
それから何度か、中川政七商店のみなさんと連絡を重ねるなかで、日本仕事百貨を通じて入社した新社長の千石あやさん、前社長の中川政七さんのストーリーを辿る全5回のコラムを連載することになりました。
小売や生産管理、初業態のオープンなど、入社後の2年間にさまざまな役割を経験してきた千石さん。
今回は、社内公募で社長秘書に立候補した千石さんのお話からはじまります。
千石 中川政七商店では、新しい役割は社内に公募が出ます。そのなかに社長秘書というものがあって、面白そうだなって思ったんです。
そこでこの会社に入ってはじめて、自分から手を挙げて。
千石 ただ、当時は伊勢丹の店舗の担当でものすごく忙しかったので、選ばれないだろうと思っていました。とりあえず意思表示だけはしておこうと。
そうしたらある日、中川が伊勢丹のお店を見に来て。帰り際にちょっと呼ばれ、秘書やってもらうことにしたわって言われて。このお店はどうするんですか?と聞いたら、まあ、しばらくは兼任やなって(笑)。
-ただでさえ忙しかったのに!
千石 3〜4ヶ月かな、兼任でやっていました。
会社としても社長秘書枠はそれまでなかったので、中川自身も秘書って何をするんだろう、みたいな状態からはじまり。
まあ、とりあえずスケジュールの管理をしてほしいと。あとは、中川の講演の資料作成や同行時の議事録、社内向け広報なんかを一手に担うことになるんです。
それが本当に楽しくて。今でもわたし、いつが一番楽しかったですか?と聞かれれば、秘書時代ですって答えますね。
-へぇ、そうなんですね。性に合っていたというか。
千石 中川とともに行動することで、いろんな企業のトップの方とお話できたのもよかったですし。本当にすごい人って、誰に対してもフラットなんだなとか、お話がわかりやすいなとか。いろんな発見がありました。
土日も関係なく仕事が入るので、その時期はその時期で大変だったんですけど、ずっと秘書でも良かったんですよ。
そんなふうにご機嫌に秘書をやっていたにもかかわらず、その半年後に企画課の課長になってほしいと言われ。
まただ、やっぱり都合のいい女なんだ…と思って(笑)。
-こうして振り返れば笑い話にもなりますけど、当時は嫌になったりしなかったんですか。
千石 うーん。なんというか、人事下手くそか!とは思いますけど(笑)、中川が今これが必要というのなら、やるべきなんだろうなと思えたんです。
秘書時代に、中川がいろんなところで経営者の方の悩みを聞き、その場でアドバイスしているのを横で聞いていると、すごくわかりやすくて。ああ、本当にうちの社長すごいなって思うことが何度もあったんですね。
だから、中川の戦略に対する懐疑的な気持ちってあまりなくて。自分の得意なことは他人のほうがわかっていると思っていたこともあるので、すんなりと受け入れてこられたんだと思います。
-なるほど。それで、企画課の課長としてはどんなことを?
千石 中川政七商店のものづくりの基本を、体系立てて仕組みとして整えてほしいっていうミッションがあって。
アイデアは天から降ってくるとか、センスだとか、そういうことで片付けられがちだけど、そこには必ずロジックがあると思うと中川は言っていて。『基本のつくりかた』という、中川政七商店のものづくりの基本的な流れをまとめることになるんです。
まずリサーチをし、構成要素の抽出をして、組み立てシートをつくって、というもの。これは今でも使われています。
企画課長もそこそこ長く、1年ぐらいだったかな。っていうときに、今度はなんやったっけ。ブランドマネージャーになったと思います。
-なったんですね (笑)。
千石 はい。それまでのブランドマネージャーは、ブランドマネジメントにかかわることに全権を持ちつつも、営業利益までは責任を負っていませんでした。
ところがちょうどそのタイミングで、ブランドごとに子会社のような形をとるブランドユニット制に切り替わって。わたしは「遊 中川」というブランドの営業利益まで責任を持って担当することになったんです。
-それって、会社としてもかなり大きな変化だったんじゃないでしょうか。
千石 本当に大きなことで。
たとえば、中川がデザイナーから商品のプレゼンテーションを受け、その場で上代(小売価格)を決める一番大きな会議があります。デザイナーたちは言われたことを逃さずメモするし、その場でボツになることもある。それはもう、ものすごい緊張感のなかで行われる会議だったんですよ。
それほど大事な会議ですら、「もうおれはやらないから、全部ブランドマネージャーがやって」と。
利益を見るということは、ものづくりの原価はもちろん、販管費も人件費も、全部ひっくるめた「商売」が求められる。
わたし、その日は本当に重すぎて抱えきれなくて。自分のなかで消化するまでに、2週間はかかりましたね。
-それでも最終的には、覚悟を決めて。
千石 そうですね。
千石 わたしの担当した「遊中川」というブランドは当時、一番調子が悪くて。
というのも、ブランドマネージャーになる3年ほど前、和雑貨ブランドからテキスタイルブランドにリニューアルしていたんですね。それがどうも、うまくいってないことが直近の数字を見たらわかって。
そこで打ち出したのが、「日本の布ぬの」というブランドコンセプトを本気で背負うブランドになろうという戦略でした。
-具体的には、どんな戦略だったんでしょう。
千石 「定番(麻織物)のテキスタイル」「季節のテキスタイル」「産地のテキスタイル」という、三本柱をつくりましょうと。
口で言うのは簡単なんですけど、それがなかなか難しくて。
とくに産地のテキスタイルは難しかった。たとえば、毎回京都の染屋さんにお願いしていれば楽ですけど、今回は山梨の織物、次は沖縄、その次は東京…と産地を巡って特集していくにはいろんな壁があって、なかなか手がつけられていなかったんです。
でも、「日本の工芸を元気にする!」と掲げている以上、絶対にそれはやるべきだと思って。
だいぶ苦戦しましたけど、途中からチームビルドがうまくいきはじめ。みんなが面白い!ってなってきたのがわかったんです。
-目に見える売り上げというよりも、まずはチームの空気が変わった。
千石 こういうものが求められてたのか!という感触を、みんなで掴んでいって。
その半年後ぐらいにテレビの大きな取材が入って、一気に客数が伸びたんですよ。
その伸びた時期と、新作の出るタイミングがちょうどよく揃い、最高の形で新しい商品たちがお客さまの目に触れることになり。そこから嘘みたいに復活していくんです。だだだん!って。
-そのあたりに、中川さんの話していた、千石さんのバランス感覚が表れているような気もします。
千石 どうなんでしょう。
でもたしかに、1年ちょっとブランドマネージャーをやってみて、成長したのを感じます。答えがわからないなかで決断していくので。
売り上げが上がっていくのも面白いし、みんなでもっとこうしたらいいんじゃないかって試行錯誤したり。チームが一丸となっていく過程も楽しかった。
ただ、その後、ブランドユニット制は一旦解散することになります。
-せっかくいい流れが生まれていたのに?
千石 わたしも、もうちょっと続けたいなと思ったし、もっと良くなる気配もありました。
あるとき、ブランドマネージャーの3人で一泊二日の合宿をしたんです。
その合宿のなかで、10年、20年後も強い組織であるために何が必要かを話し合って。ブランドユニットを解体してもう一度組織をつくり直すことが必要だね、と結論を出し。
強くなるために、自分たちで舵を切りました。
新たにブランドマネジメント室という全体統括の部署をつくり、そこでわたしは室長になるんです。
一編の物語のように続いてきた千石さんのお話。
次回、最終回です。
ブランドマネジメント室の室長から、社長になるまで。そして、社長になった千石さんが思うこと。中川政七商店のこれから。
ぜひ最後までお付き合いください。
中川政七商店では、現在、6つの仕事で新しく仲間を募集しています。
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