コラム

新年のご挨拶
新しい年に寄せて

あけましておめでとうございます。ナカムラケンタです。

2023年になりました。未来の幕開けのような2001年から、22年も経ったなんてびっくりします。22年はまだまだ21世紀の序盤と言っても良いかなあという感覚だったのですが、23年にもなると中盤に入ったように思います。

今年の8月1日には、日本仕事百貨も15周年です。ありがたいですし、びっくりします。会社としても、もはや新興企業とは言えないでしょう。これからもみなさんのお役に立てる会社でありたいです。

そして、私は5月で44歳。こちらはとっくに中年ですね。

8月1日にはリトルトーキョーがリニューアルオープンいたします。素敵な仲間たちとともに、新しい場所がはじまります。

みなさまとお会いできることを楽しみにしています。今年もどうぞよろしくお願い致します。

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2022年もいろいろな出会い、いろいろなできごとがありました。新しい年を走り出す前に、スタッフ一人ひとり、これまでを振り返ってみました。

3日間のコラムでご紹介していきます。

初日は、編集者 兼 新規プロジェクト担当・荻谷、バックオフィス担当・宮本、ローカルライター長・中川、編集者・増田の4名です。

 

「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり(月日は永遠の旅人であり、やってきては過ぎていく年も旅人である)」

学生のときに読んだ「おくのほそ道」。冒頭の口触りのよさから、なんとなく頭に残っている。

捉えどころのない時間に形をもたせて、自分の周りを行ったり、来たり。人生の時間のはやさを表していると言われていますが、私にはあっという間にすぎていく日常を違う速度で捉えられる、好きな表現です。

2020年の新型コロナウィルスの流行から、自分のなかの時間の流れが変わったように感じています。その時期のことは、今思うとあっと言う間。でも最中にいると永遠のように感じる時間を、独りアパートで過ごしていました。

自分ではどうすることもできず、立ち止まざるを得ない時間は本当に長く感じていたと思います。

昨年の2月にシゴトヒトに入社し、今こうやって年賀のご挨拶を書くまでは、本当にはやかった。

何週間も先の取材や、何ヶ月も先のイベント。そして会社のリニューアルオープン(来年、シゴトヒトオフィスがあるリトルトーキョーは新しく動き始めます!)に向けて、先に先に歩を進めていくような仕事に日々取り組んでいます。ゆっくり、重たかった時間がどんどん前に動き出したような感じ。

またやってくる新たな1年。2023年はどんなペースで歩んでいくことになるのか。

冒頭の「おくのほそ道」に続く文では、旅にでたくて仕方がない気持ちが書かれています。夢中になれることがあると、きっと1年が駆けていくようにはやく感じる。オフィスが新しくなるので、そこでハーブや藍を育てて何か企画してみるのもやってみたい。

またやってくる、でも今年とは違う1年。走るのは苦手だけれど、鼻歌が歌えるくらいのスピードで進んでいきたい。その道中でみなさんにお会いできるとうれしいです。

(荻谷 有花)

 

(誰かに取材するように、入社してからこれまでのことを振り返ってみました)

「今年の1月頃にはまだ全然、ここに自分がいるって想像もできてなかったですね」

そう話すのは、2022年9月にバックオフィス担当としてシゴトヒトに入社した、宮本浩さん。建設関係の会社で16年半勤めたあと、転職することになった宮本さんに、入社の経緯とこれまでのことを振り返ってもらいました。

まず、なんでこの会社で働いてみようと思ったんですか?

「そうですね。40歳になる少し前ぐらいから、なんかこのままでいいのかって。定年までって考えたらあと20年。もやもやしたまま過ごすには少し長すぎるなと」

そんな時期に、シゴトヒトがひらいていた「文章で生きるゼミ」に参加してみたり、リトルトーキョーに通うようになっていろんな人と出会ったりもして。ケンタさんともよく言葉を交わすようになったんです」

「あるときケンタさんから誘われて。今までの経験も活かせるし、40過ぎて新しいチャレンジってなかなかできないかもと思って飛び込んでみました」

「あとは自分が地方出身ってこともあるのかもしれないですけど、地域おこし協力隊とか地方にまつわる求人を多く紹介していることも決め手の一つだったかもしれません」

「地方創生とか地域の活性化みたいなことに、間接的でも関わる仕事になりそうだなと。その土地土地の良さが残っていってほしいと自分は思っているので」

実際に働いてみてどうですか。

「徐々に慣れてきましたね。入社2日目から、朝の出勤時に入り口のシャッターを開けなきゃいけなかったのには少しびっくりしましたけど。まあ一人だけ決まった時間の出勤なんで、自然とそうなる感じです。信頼されてるってことなのかな」

「一人だけだいぶ歳が離れているので、話し合うかなぁとか感覚が違わないかなぁとか、そこも少し心配だったんですけど。でも、よく考えたら会社ってそんなもんだし、変に意識し過ぎていたなぁと思うようになりました」

振り返って一番印象に残っていることってなんでしょう?

「一番ってなかなか決めづらいですけど…。誕生日を祝ってもらったことですかね。祝日生まれなんで、その日にっていうのは家族以外まずなくて。あとは会社の人からっていうのも、これまではなかったですね」

「誕生日の翌日、夕方、仕事をしていたら後藤さんと中野さんがハッピーバースデーを歌いながらケーキを持ってきてくれて。そんなことされたことなかったので、少し恥ずかしかったけど、とても嬉しかったです」

「みんなでお茶飲みながらケーキを食べて。なんか”仲間”になれたような、そんな気がしました」

(宮本 浩)

 

弟夫妻に娘が生まれた。11月8日、月食の日のこと。

ぼくはおじになった。

翌日、家族LINEに姪の写真が送られてくる。パッと見て、弟に似ているな、と思った。生まれたばかりの小さな子どもにも、この家族の血が流れている。

それから毎日のように写真が送られてきて、はじめて会えたのは11月22日。この日に抱いたなんとも言えない感覚が、今でも忘れられない。 

命…! 命が動いているっ!!

そんな感覚を得たのだ。

ふと俯瞰すると、自分が今生きていることも、ほかのみんなが「自分の人生」を生きていることも、不思議に思える瞬間がある。

社会のなかで生活していく、というのとはまた別の意味合いで、命が生まれてここにあることそのものが、奇妙な巡り合わせ、絶妙なバランスの上に成り立っているというか。自分も含め、みんなよく生きているな、と思うことがある。

そのことを、普段はほとんど忘れて生きている。ただ、赤ん坊は儚い。

生まれて間もない姪が、手足をばたつかせ、動くものを必死に目で追い、疲れて小さなちいさな寝息を立てるのを見ていると、じわじわとその感慨がよみがえってくる。

共有感覚としての弱さが、わたしたちを温かく包み込んでくれる。握りこぶしほどの小さな心臓が、止まることなくリズムを刻む。そのおかげで、今もこうして生きている。

親とおじでは、責任の所在が大きく異なる。たまに顔を出しては、かわいいねとか、大きくなったねとか、いいところだけ見て関わったって構わない。

生きることの感慨に、こんなふうに思いを馳せられるのも、おじという気楽なポジションのおかげだ。産みの苦しみ、育ての苦労、親として抱える責任や重圧は、相当なものだろう。弟夫妻のみならず、身近な人たちが親になり、奮闘する様子を見聞きしていると、思わず拍手を送りたくなる。 

だからこそぼくは、なるべくなら、いいおじでいたいと思う。お小遣いやお年玉をくれて、遊んでくれて、甘やかしてくれる、そんなおじになるのもいい。けれど、真剣に何かを楽しんでいたり、思うことははっきり伝えたり、悩んだり怒ったり、ひとりの人として、参考になるようなおじさんになれたらもっといい。

まあ、先々のことはわからないな。ちゃんと食べて、ほどよく働き、人を大事にしていたら、勝手に横顔を見ていてくれるだろう。

去年から拠点を長崎に移し、最近は株式会社シゴトヒトにとっても、親戚のような立ち位置で関わる機会が増えた。編集の仕事のほかに、社内合宿の運営、月1ミーティングの企画、1on1、ローカルライターとの橋渡しなど。一筋縄ではいかず、右往左往を繰り返しているのが正直なところ。

ただ、これまた未経験のことで、おもしろい。自分で自分のお尻を叩いてがんばるだけでもいけないし、ふらふらしながら「どう?元気にやってる?」みたいなスタンスでいたら、真剣にやっているメンバーの反感を買うだけだ。

ノリと勢いで乗り切れる時間が、いよいよ減ってきていることを感じる。それはおじさんになって、体力と気力がなくなってきたから、とかではなく。荒削りであること、多少雑であることの言い訳ができなくなってきている、という感覚に近い。 

よくよく自分に問うてみれば、もともとそうありたかったんだ、ということにも気づく。よくものを見て、人を見て、よく考え、じっくり時間をかけながら、答えを出していく。組織や地域と関わっていく。 

ここから自分に何ができるか。おじ的、親戚的ポジションからの探求は、まだまだ続いていきそうな気がする。

(中川 晃輔)

 

 

東京の荒川区から新宿区を結ぶ路面電車、都電荒川線。

秋ごろに取材に行った会社の最寄り駅が都電沿いだった。

普段あまり乗る機会はないけれど、実は新卒ではじめて働いた会社も、都電が最寄り。歴史ある中小企業で、ほかにはない技術が自慢のメーカーだった。

車内で当時を思い出し、胸がきゅーっと苦しくなった。営業として働いていたけれど、あまりうまくいかなかった自分。

今思えば、本気が足りなかった、という言葉に尽きると思う。でも当時は、本気を出す理由を見つけられなかった。

わたしは、会社を辞めて、少しの間海外に行くことにした。

「今辞めたら、将来結婚して子どもが生まれたとき、仕事の話ができないんじゃないの?」

辞める直前に居酒屋で、一緒に働いていた先輩に言われたことをずっと覚えている。たしかにそうだ、と思ったから。

それでもわたしは退職し、海外に留学した。

「仕事の話はできないかもしれないけれど、海外に行った話はできる」

そう言ってくれた人がいたのも、最後の一押しになったと思う。

滞在先は、北欧・デンマークの田舎まち。15カ国、50人の同級生たちとともに過ごしたのは、たったの数ヶ月間だったけど、何年経ってもまったく色褪せない、今の自分を形づくる核となるような経験だった。

そして、今。わたしは、2歳の娘を育てている。 

まだ日本語がおぼつかない彼女も、時折パソコンをカタカタしている母を見て、「おしごと」と認識しているらしい。

さみしい思いをさせないよう、なるべく娘の前で仕事をしないようにしているけれど、急ぎのときはやむを得ない。いつでも手を止めてあなたのところに行くよ、という姿勢を見せることだけは忘れないようにしている。

日本仕事百貨の編集者として書いた記事は、100本を超えた。 

これだけの本数を書いても、いまだにこの仕事におもしろさを感じている。

初めて訪れる国で、そこでしか味わえない経験をすること。初めて訪れる会社で、出会う人たちの想いに触れること。

どちらも根本的には似ていて、自分はどうにもその体験が好きなんだと思う。

目の前で穏やかな顔で眠る娘に、わたしは何を伝えられるだろう。

まずは、自分の心に素直な選択をすること。その先に母が見つけつつある道と同じようなものを、彼女なりの方法でいつか手にしてくれたらうれしい。

(増田 早紀)

 

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今年も、いろいろな生き方・働き方を伝えるメディアとして、スタッフ一同より一層精進してまいります。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

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