コラム

心の赴くままに、やってみる

これはしごとゼミ「文章で生きるゼミ」に参加された谷木諒さんによる卒業制作コラムになります。

文章で生きるゼミは伝えるよりも伝わることを大切にしながら文章を書いていくためのゼミです。

東京最西端の町、奥多摩町。

自分が昨年、地域おこし協力隊として移住してきたこの町に、13年も前からひとりで地域をおこしていた先輩がいた。

菅原和利さん。奥多摩在住の会社員。

「町役場の課長さんに『スガくん、将来奥多摩に移住してきなよ』って言われてさ、18才の時。『いや俺は六本木ヒルズに住みたいっす』って言ったのを憶えてる」

当時はIT企業経営者に憧れ、華やかな生活を夢見ていた。

「実家の小田原から都心の大学に通って。ウキウキしてたんだよ、オシャレだし、かっこいいし。うちは普通の家だったから、いい大学入っていいところに就職するのが幸せだと思ってたよね」

でも、何かが違う。

自分の持っている価値観に違和感を覚えていた。

「満員電車に乗ってるとさ、みんな疲れてるように見えて」

奥多摩との出会いは、環境問題を学ぶ課外実習で訪れたことがきっかけだった。

「中山間地域の暮らしを全く知らなくて。こんなところに人が住めるんだって衝撃から入ったよ」

「都会とは違って『持続可能な社会』がそこにはあったよね。落ち葉を使って畑を作るとか、食べかすは全部肥料にするとか。なんでこれが世の中のスタンダードにならないんだ、って思った。ここで学べる事があるんじゃないか。だから深く入ってみようかなって」

大学4年間にわたって通いつめた菅原さんは、奥多摩でなにか出来ることはないかと、地域プロダクションの会社を作ろうと決意。貰っていた内定も断った。

「自分に正直になって、今やりたいと思うことをやったほうがいいんだろうね」

誰もが反対するなかでの決断。大学卒業と同時に移住した。

「大変だったよ。携帯代と家賃5000円かな、バイトで最低限の生活費を稼いで。残りの時間は全部、事業立ち上げのための計画とかリサーチとか」

「3.11(東日本大震災)の日も普通にアルバイト。大学時代ならすぐにでも被災地に行ったんだけど。会社つくるって覚悟してるから行けないよね。本当に悔しかった」

目標のために、今を犠牲にすることへの葛藤。ただ我慢するしかなかった。

苦労の甲斐あって、会社を立ち上げることに成功した。

社名になった「アートマンズ」はサンスクリット語で「本当の自分」を意味する。

「それってあなたなの?本当の自分なの?って問いかけると、いや実は違うんですよ、みたいな人がたくさんいるのね。これが『豊かさ』ですよね、っていう価値観を世の中に提示したかった」

奥多摩の地の利を活かし、アウトドアウエディングやシェアヴィレッジといったビジネスを展開。全精力を注いだ。

売上はどうだったんだろう。

「自分ひとり食べていくなら問題なかったんだけど。軌道にのせるのは厳しかったよ」

家庭の事情もあり、やむなく1年で実家に戻ることになった菅原さん。会社を休眠し、地元の不動産会社に就職した。

「最初はぜんぜん奥多摩のこと、忘れられなくてさ」

1年が経ったある日のこと。チャンスは突然やってきた。

「大学時代のインターン先の会社が、奥多摩で製材会社を立ち上げることになって」

奥多摩のことなら、と頼られる存在になっていた菅原さん。地域とコミュニケーションをとれる人材として声を掛けられ、一緒に働くことになった。その会社の名前は「東京・森と市庭(いちば)」。多摩産のスギ・ヒノキを使った遊具、家具の生産・販売を行う会社だ。

かつて奥多摩の山からは、建築資材として木々が大量供給されていた。ところが価格の安い外国産材が輸入されるようになると国産材の需要が低下。林業が次第に衰退していき、今や山を維持管理するのも難しい状況にある。

菅原さんがかつて奥多摩で見つけた「持続可能性」というひとつの魅力。そんな大切な魅力が失われていくことに、抗いたかった。

「いくら声高に『東京の木に価値があるんだ、森を守りたい』って営業しても、なかなか響かないんだよ。売れなかった。正しさで人の意思は動かないからね」

木の供給量を増やして、森を守りたい。

どうしたら売れるんだろう。

「ある時気がついたんだよね。使う人にとって本質的な価値があることが大切なんだ、って。触って気持ちがいいとか楽しいとか、五感にリーチしていかないと。それから方針転換して、この木を使って誰を幸せにできるのか、次第に考えるようになったかな」

どうしたら売れるか、ではなくて、誰を幸せにできるか。

「一番喜んでくれたのが、保育園、幼稚園の子どもたちだった。座ったり触ったり嬉しそうで。スギ・ヒノキは空気を多く含んでるから柔らかくて、先生からも『子供が怪我しないですよね』とか『あったかくていいと思いますよ』って言葉をもらったし」

必要とされる人に、しっかり届いていた。

菅原さんは今、保育園・幼稚園をメインに販路開拓を進めている。東京の森から作り出した遊具を、東京の子供たちに届けるために。



考えてみて、悩んでみて。やってみて、失敗して。探してみて、見つかった。
菅原さんの人生はその繰り返し。

「やってみないとわからないじゃん。ここで失敗してもなんとでもなるだろうと思って。とにかく自分の心が動いたものは全部やってみてさ」

地域おこしの先輩として、奥多摩の未来を照らしてくれている。

後に続け、自分。

(2019/2/14 取材・執筆・撮影 谷木諒、編集 菊池百合子)