コラム

記憶の彩度

これはしごとゼミ「文章で生きるゼミ」に参加された、内野紀惠さんによる卒業制作コラムになります。

「一人で食べると美味しいでしょう」

毎週通っている教会で、背後から一人のおじいさんに声をかけられた。

ミサが終わるとすぐに帰る人もいれば、おしゃべりして残っている人もいる。私はひとり椅子に腰掛け、お菓子をつまみながら小説を読んでいた。

「みんなで食べると美味しい」とはよく聞くけど、逆は初めてだった。

少し考えて返答する。

「私は一人で食べているとき、もしかしたら味覚は少しも働いていないのかもしれません」

彼は戸惑う私の様子を見て、はははと笑いながら、「こんなこと、現に一人で黙々と食べている人に言う人なんかいないよね」と言い残して、自分の荷物を取りに行ってしまった。

手にしていた小説以上に小説のようなシーンだった。

彼の行動が気になって、目で追ってしまった。

リュックに手をかけ、荷物をひとつひとつ丁寧にしまっていく。しわだらけの手は小刻みに震えていて、視線はじっと手元に向けられている。

他に注意が逸れることはなく、私の視線に気づくこともない。

思えば私は何にも集中していないような気がした。食べながら本を読んだり、音楽を聴きながら勉強をしたり。

五感をいかに置いてけぼりにしてきたのだろう。五感は今しか働かず、記憶の中では五感は使われない。

慣れてしまうと帰り道に自分がどう帰ってきたのかも覚えていないということがある。

途中になんの障害も感じなくなると、五感を置いてけぼりにして他のことを頭の中でやってしまう。何かはしていたはずなのに、記憶だけが、空っぽ。

あれから数ヶ月が経ち、現在はフランスへ留学に来ている。

仮住まいとは言うものの、ここでの生活は非常に簡素。あったら良いとは思うけれども、無くても他で代用できる。そういうものは手元におかなくなった。

洗濯は基本手洗いで、炊事も全て手作業。調理器具が揃っていれば良いのだけど、電子レンジもなければ炊飯器もない。鍋とフライパンも一つづつしかないので、ご飯とおかず一品を作るだけでも工夫が必要だ。

ただ、火を入れる前の水を吸った米の色や形など、炊飯器で炊いていた頃には知りもしなかった。

先日、「それだけ”美味しい”が蓄積されているんだね」と友人に言われた。お手製レモネードのレシピをこっそり教えているときのことだった。

意識が追いついてきた。

不便さを感じながらひとつひとつに時間をかけることで、自然と五感を使うようになっていた。色鮮やかになった記憶・・・。

何をするかではなく、今何を感じとるか。

その記憶に自分の生きた実感が残るはずであるし、それは色鮮やかであるほど良い。

「一人で食べると美味しい」と感じられるのは、それを知っている人だけなのかもしれない。

文章で生きるゼミは、伝えるよりも伝わることを大切にしながら文章を書いていくためのゼミです。オンラインで開催しているので、どこからでも受講することができます。

次回は、8月末からオンラインで開催します。申し込みは2022年7月31日(日)まで。興味のある方は、こちらから詳細をご覧ください。