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12年間収入を得ながら
過去と今をつなぐ
鋳物師になる

※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。

「ぼくは、今やっていることって、過去と今をつなぐ仕事だと思っています」

「何百億という人たちが生まれては亡くなり、蓄積されてきた文化の末端に今いるわけでしょう? 生きている以上、誰もが何かしらのバトンを受け取っている。自分もバトンを持ってんだ、って思わないといけないですよね」

そんな話を聞かせてもらってから、自分はどんなバトンを受け取り、どんなふうに未来へ渡していきたいんだろうと考えています。

福岡県芦屋町。このまちで、鋳物師(いもじ)になる人を募集します。

鋳物師は、金属を鋳型に流し込んでものをつくる職人です。芦屋町では、約650年前の南北朝時代から鋳造で茶の湯釜をつくってきました。

江戸の初期に一度途絶えたものの、平成7年にまちをあげた芦屋釜の復興がスタート。芦屋釜の里という施設を立ち上げたほか、芦屋町の嘱託職員として2名の職人を雇用し、独立まで16年間にわたってサポートしてきました。

今回募集する人は、すでに独立した2人の次世代を担う役割です。養成期間の12年間は任期付職員として収入を得ながら、それぞれのもとで鋳物師の技術や考え方を学びます。

一人前になるまで時間がかかるし、まちをあげてサポートしている取り組みなので、気軽に挑戦してください、とは言えません。ただ、安定した収入を得ながら、自分の技能や感性を磨くことに集中できるという意味では、ほかになかなかない恵まれた環境だと思います。

鋳物師という仕事に自分を投じられるかどうか、じっくり考えながら読んでみてください。

 

向かったのは、芦屋釜の里。北九州市の小倉駅から車で40分、JR博多駅からは1時間10分ほどかかる。

名前からして人里離れたところにありそうだけど、周囲には住宅街が広がっていて、暮らしやすそうな雰囲気。海も近い。

施設のなかには芦屋釜に関する資料や作品が展示されているほか、工房があり、鋳物師のひとりである樋口さんは、日々ここで作品をつくっている。

まず迎えてくれたのは、館長の新郷(しんごう)さん。考古学が専攻で、もともとは縄文時代を対象にしていたものの、今ではすっかり芦屋釜の世界に浸っているそう。

館内を回りながら、芦屋釜について教えてもらう。

「芦屋で釜づくりがはじまったのは、およそ650年前の南北朝時代です。京都を中心に高く評価されて、足利義政の時代には、一度に30個もの釜が献上されています」

地名のついた釜の産地は、全国で3ヶ所しかない。国の重要文化財に指定されている茶の湯釜9点のうち、8点を芦屋釜が占めていることからも、評価の高さがうかがえる。

「ところが、この辺りを守っていた大内義隆という大名が、下克上の世の中で家臣に襲われて死んでしまうんですね。その後一気に衰退して、江戸の初期には一度鋳物業が途絶えるんです」

芦屋釜の物語が再び動き出したのは、400年後の平成元年。竹下内閣が掲げたふるさと創生事業によって、各自治体に1億円が交付された際、芦屋町ではまちをあげて芦屋釜の復興に取り組むことに。

全国を回って調査を重ね、鋳物師の指導員を招いて芦屋釜独特の技法を復元。16年間の養成期間を経て、現在は2人の鋳物師が独立している。

今では、重要文化財が多く生まれた時代のものと「肉薄するぐらいのところまできている」と話す新郷さん。鋳物師のおふたりが復元した作品も館内に並んでいるというので、見せてもらう。

うわあ…。

「真形(しんなり)」という形状に、自然をモチーフにした文様、なめらかに磨き上げられた鯰肌(なまずはだ)。茶道における実用の道具でありながら、ただ眺めていたくなるような佇まいがある。

「芦屋釜って、絵が入るんですよ。だから絵が描けないと仕事にならない。鋳造の経験はなくても大丈夫ですが、図案を釜に落とし込むデッサン力は必要ですね」

今回募集する人は、2人の鋳物師のもとで弟子として働くことになる。

芦屋町の任期付職員として一定の収入があるため、12年間の養成期間も別の仕事で稼ぎを得ることなく、技術習得や感性を磨くことに専念できるのも大きな魅力。

また、今はそれぞれ一人体制で運営しているので、新しく人が入れば生産性も上がるし、合計4人で力を合わせれば、釣鐘の復元などの大きな仕事も受けやすくなる。

 

鋳物師のおふたりはどんな方々なのか。

まずは芦屋釜の里のなかにある工房へ、樋口さんを訪ねた。

美術の先生になるための勉強をしていたという樋口さん。金属工芸が専攻だったため、芦屋釜のことは以前から知っていた。

大学時代のアルバイトを経て、2005年に鋳物師養成員になり、2021年に独立。この工房をまちから借りる形で使っている。

「美術・芸術を仕事にするには、名前が売れるまでは食べていけないのが普通ですから。養成員になることで、自分に投資ができますよね。金銭的な心配をせずに技術を高めたり、感性を磨いたり、そういうふうに時間が使えるのはありがたい環境だったなと思います」

今でこそ独立したおふたりの前例があるものの、樋口さんが養成員だった当時は400年近くも技術が途絶えていて、今以上に手がかりの少ない状態。養成期間も16年と長かった。

まちのサポート体制が整っているとはいえ、途中で投げ出しそうになることはありませんでしたか?

「ぼくはなかったですね。どうしても習得には時間がかかるから、その時間を有意義にするメンタルがないと厳しい。これから養成員になる人には、ぼくらをひとつの指針にしながら、とにかくまあ、10年ぐらいひとつのことに集中してやってみませんか?と言いたいですね」

この日、樋口さんが進めていたのは、鋳型に文様をつける作業。霰(あられ)と呼ばれる丸い突起を、一つひとつ手で打ち込んでいく。

これはかなり根気がいりそうだ。

文様や形にもよるけれど、一つの釜をつくるのにだいたい4ヶ月ほどかかるという。

ただ、その前提さえも「疑ってもいいかもしれない」と樋口さん。

「本当にこれだけの時間をかけなきゃだめなのか、とか。自問自答する時間は必要ですよね。つくるものにしても、“今の社会に合っているか?”と考えるのはすごく大事なことで」

「いくらぼくらがいいと思って昔通りのものをつくっても、受け入れてくれる人がいなければ、それは自己満足というか、独りよがりですよね。そうじゃなくて、今を生きる人たちにもちゃんと伝わって、それを使って自分の暮らしを豊かにしたいなと思えるものをつくらないといけないと思うんです」

樋口さんは、鋳造の技術を応用して美術性の高い作品づくりもしている。

東京や京都で個展等をひらいたり、中国青銅器の研究をしたり。コロナ禍で認知を広げにくいなか独立したこともあり、茶の湯釜をつくる傍ら、芦屋の鋳物の可能性をいろんな形で模索してきた。

その過程で、考古学の専門家やお茶人、ギャラリーのオーナーなど、いろんな人と出会った。その出会いによって、仕事の幅も広がり、自身のつくるものも変わってきた実感があるという。

「新しいことを勉強して、また過去を見なおすと、その間にあるものが見えてきたり。前は通り過ぎていたけど、ああこういうことだったんだ、とか。そういうのが出てくると、もっともっと面白くなってくる。それがやりがい、もっと言えば生きがいですよね」

芦屋釜としての揺るがない軸と、今の時代に求められるもの。

それはときに相容れないかもしれない。それでも問い、自分なりの答えとしてものをつくり届けることを楽しめる人ならば、鋳物師という仕事はきっといつまでも飽きることのない仕事になるのだろうな。

 

続いて、芦屋釜の里から歩いて3分ほどの距離にある八木鋳金工房へ。

外観はふつうの一軒家のよう。なかに入ると、右手の棚にはさまざまな作品が並び、左側には和室、奥の扉を抜けた先に工房がある。

ここを2021年に立ち上げたのが、もうひとりの鋳物師である八木(やつき)さん。

この仕事をはじめるまで、鋳物を勉強したことも、茶道を習ったこともなかった。

「前職で思いっきり働いて、思いっきり体を壊して。すっぱりやめて何しようかなってときに、できたばかりの芦屋釜の里の前をたまたま通りかかって立ち寄ったんです。そこで職人さんに声をかけられて」

その職人さんは、1時間半ほどかけてたっぷりと説明をしたあと、全部で約3000円はする図録を買って渡してくれたそう。

なんでも、「芦屋鋳物師の採用試験があるから、それを読んで試験を受けにこい」とのこと。

そんな偶然の出会いがきっかけとなり、八木さんは鋳物師の道を歩みはじめることになる。

「ある人から『好きか嫌いかは10年やって考えろ』って言われたんです。10年経って、休みの日も仕事している自分がいて。20年経って考えたときに、もうやめられなくなっていました」

「いまだに“たぶん好きなんじゃないですか”っていうぐらいで。好き嫌いというより、生きていくための生業ですよね。いろんな人と出会って、教えてもらったり、悔しい思いをしたり。そういうなかで仕事がだんだんとおもしろくなってきたんです」

樋口さんと同じく、八木さんも釜以外にさまざまなものをつくっている。

いきなり釜をつくるのはむずかしい。干支の置きものや酒器など、まずは小物をつくることから鋳造に慣れ、仕事の達成感を感じながらステップアップしていってほしいという。

「そういう時代ではないのかもしれないけど」と前置きしたうえで、八木さんはこんなふうに話していた。

「生涯この道に人生をかけてくれるような人間を育てていきたいんです。60歳で定年なんて、ぼくらにはないので。一生をかけて、自分のなかにきらりと光るものを見つけて、お客さまに提供して喜んでいただく。そういう仕事です。本物の職人を育てたいですよね」

山口の地域商社とコラボしてつくったぐい呑みの大内人形師さんは、96歳の今も現役。そんな姿に八木さんは憧れるという。

「職人の世界は命止まるまで。死ぬ前日まで好きなものをつくれれば、それ以上幸せなことはないですよ。70、80になっても仕事に追われて、八木さん、納品まだですか? すんませーん!明日にはできますんで!って。そういう生き方もおもしろいのかなと思います」

八木さんは、どんな人に来てもらいたいですか。

「素直で、聞く耳を持っている人ですね。先人たちが大切に守ってきたものを、ぼくらも守っていかなくちゃいけない。そのために、最初は徹底的に個性を消させます」

「天才やスーパーヒーローじゃなくていいんです。初代ができなかったことをする。初代と二代目がかけた時間を、三代目が受け継ぐ。それが財産であり、伝統なんですよ。そういうものがすごく尊いのかなっていうことを思いますね」

 

歴史があるとはいえ、長く途絶えていた芦屋釜の技術。つくり手としての精神世界を辿る旅は、まだはじまったばかりです。

過去と今をつないで、新しい伝統をつくっていってください。

(2022/12/20 取材 中川晃輔)

※撮影時はマスクを外していただきました。

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