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和歌山県那智勝浦町・色川(いろかわ)。
人口およそ300人、9つの集落からなる山村。47年前に移住者の受け入れを始め、今ではなんと住民の約6割がIターン移住者だそう。
一方で、元々の地元住民の過疎と高齢化が進み、地域の伝統や文化といった色川らしさを、どうつないでいくかという課題に直面しています。
この地域でよく使われる“わがら”という言葉があります。我がら、つまり“自分たち”という意味です。
面積の9割を占める森林を切り開いた棚田や、家の石垣。集落を流れる水路も、道も。色川地域は1000年にわたり、人の手で土地と歴史をつくってきました。
いま村に住むお年寄りは、色川に受け継がれてきた暮らしを守り続けています。
そんな“わがら”のむらを知り、次につないでいく。今回は、この色川地区を拠点に、地域のみなさんと一緒にこれからを模索していく地域サポーターを募集します。
さまざまな地域活動のサポートを行いながら、色川に住む人と会い、話を聞いて、整理して、かたちに残す。仕事のなかでは、記事を書いたり、編集したりする仕事もありますが、経験は必要ありません。
いつかは地域で暮らしてみたい。そう思う人にこそ、読んでほしいです。
色川地区のある那智勝浦町は、紀伊半島のはしっこに位置している。
名古屋から特急南紀に揺られること4時間。松阪、尾鷲、熊野を越えて、電車は終点紀伊勝浦駅へと到着した。
駅を降りて、車で山道を30分ほど走る。
到着したのは、地域おこし協力隊の拠点となる古民家。目の前には、色川地区唯一の小中学校と保育所がある。
まず話を聞いたのは、色川地域振興推進委員会・副会長の原さん。兵庫県の生まれで、1981年に移住してきた。
1950年代、銅鉱山で栄えた色川では、約3000人が生活していたそう。その後、鉱山が閉鎖して農林業も衰退。働き口を求めて、住民は村の外へ。
そうしたなか、1975年に農業実習生として移住希望者が現れた。それがひとつのきっかけとなり、移住者が増えていくことに。
一方で、地元住民の減少は止まらなかった。人口が600人を下回った1991年に、地域の活性化を図るために推進委員会が立ち上がる。
「移住者が引っ張っていかないと、色川は続いていかないなと。地の人も、移住した人も、あとの世代について考えないと、村がなくなってしまう危機感は共通していました」
地域にある廃校となった小学校をリノベーションして、移住希望者向けの短期滞在施設をはじめたり。地元住民と移住者が協力して、棚田の維持に取り組む団体を立ち上げたり。地元の人と移住者がひとつになって暮らしていくために、取り組みを実践し続けた。
「移住者を受け入れるときに、必ず言っていたことがある。それは、地域の人らの、大事にしとるもんを、大事にしようとする気持ちを持ってほしいということ」
「関係性もないなかで家や田んぼを譲ってくれとか、なんぼですかって聞いたらいかんと。地域の人にとって、それは最も失礼なこと。先祖代々守ってきた家や農地を譲るって、並大抵の思いではできない。だからこそ、その人らの思いを知る姿勢を、しっかり持たないかん」
棚田も水路も、水道も。人の手で開拓して、受け継いできたもの。自身も移住者である原さんだからこそ、素直な言葉が胸に飛び込んでくる。
地元の人が減り続けている現状があるからこそ、いま話を聞いて、残す必要がある。
「村のことを人から聞いたり、自分で体験したり、それらを通して自分で考えて、記録する。それは村の人だけでなく、移住を考える人にとっても、きっといいことがある。そこで2009年から、協力隊の受け入れをはじめました」
そんな原さんとともに、地域を受け継ぐことに尽力しているのが、色川に生まれ育った新宅伸一さん。林業を営みつつ、合間を縫って空き家探しに取り組んでいる。
原さんと同じ委員会の会長で、ふたりは40年ほどの付き合いがあるんだそう。
「嫌われてもやり取りしようと思うエネルギーは持っておいてほしいかな。つい合うもん同士で固まってしまうのが世の常やんか。でも、田舎でもっとも学ばないといかんのは、みんな1つになって生きてんだよね」
「村ん中に、合うも合わんも好きも嫌いも山ほどあるけども、事実一緒に暮らしている。やから、色川の人らは理屈抜きに、わがらって意識を持ってる。個人の意見というより、村のみんなを主語に、色川のことを知ろうという姿勢を守ってくれていると、うれしいかな」
隣で座る、原さんが続ける。
「俺、死ぬまでよそもんやなということはずっと思ってますわ。色川で生まれ育って、代々守ってきた人たちの思いとか感覚って、想像はできるけど、いつまで経ってもわからん」
具体的に、どんな働き方をしていくんだろう。
現役の隊員で、今年3年目を迎える家村さんに話を聞く。
「もともと、京都市役所で建築技師として働いていました。いつかは、田舎暮らしをしようと考えてたんです。庭先で野菜を育てたりと、暮らしを手づくりしていく感覚が好きで」
「家族で移住について調べていたときに『人口のうち移住者が半数以上』という言葉に目が止まって。そこで、色川を知りました」
2度ほど旅行で訪れ、農家民泊に滞在し、色川での暮らしを体験した。
「出会ってお話しすることができた人の魅力に惹かれました。みなさん、この土地とそこでの暮らしに対して愛着と誇りを持っている。自分の暮らしに軸のようなものを持っておられるなっていうことを一番に感じたんです」
「当時は子どもも小さくて、子育てに不安がありまして。そのことを宿の方に相談したら、近くに住むお母さんたちを紹介してくださって。暮らしについて、いろいろとお話ができたことがうれしかったんですよね」
2022年の4月から、協力隊として移住。任期を終える来年からも、そのまま定住するつもりなのだそう。
日々の仕事のひとつが、月に1度の地域新聞の発行。主に地域住民が記事を書くので、地域おこし協力隊は話を集めて、レイアウトに落とし込む作業を担う。
「ときには、自分で記事を書くこともあります。集落で開かれる催事に参加して取材をしたり、水路であるパイプを敷き替える作業に参加したレポートを書いたり」
ほかにも、年に一度刊行されていて、30年の歴史がある「色川だより」の作成。色川の現状や各地区の様子を住民へ聞き取りしてまとめた数十ページの冊子で、定期的に会合も開いている。
記事を書く以外では、全国棚田サミットの運営のお手伝いをすることもあれば、色川さんという名字の人が集まる会を開くことも。ときには地域の整備や草刈りもする。
自分の特性を活かしてなにかをする、というイメージがある地域おこし協力隊の仕事とは違って、村の人が求めているものをサポートするような働き方。
「そうですね。ひとことで言うと、住民になるまでの研修期間、のような感じです。3年間、まずは住民になるために、この地に身を置いて、色川を知るという作業をじっくり行なっていく。そのおかげで人脈も広がるし、さまざまな話を聞くことができる」
「だから、田舎暮らしに興味があるとか、地域のことを知りたいとかって、ふわっとした動機でも、ぜひ応募してほしいと思っています」
定住後の仕事はまだ決めていないと言う家村さん。「先のことは、なんとかなる」と、ゆったりとした様子。
現役の協力隊は家村さんともう一人いて、ふたりとも来年の4月に任期を終える予定なのだそう。地域に残る家村さんも、相談に乗ってくれると思う。
とはいえ、どんなふうに仕事を見つけていけばいいんだろう。
そう思っていると、「ぜひ話を聞いてみたらおもしろいんじゃないかな」と紹介されたのが、千葉智史さん。
前回の仕事百貨の記事で色川の地域おこし協力隊として参加し、そのまま定住をした方。歩いて10分ほどの場所でお店を営んでいるとのことで、話を聞くことに。
木造でできた建物。中へ入ると、奥に大きな本棚が並んだカフェスペースのようなものがある。千葉さんが迎えてくれた。
「らくだ舎という、喫茶店兼本屋と、本の貸し借りができる図書室のような場所をしています。色川には、じつはあんまり人が集まれる場所がなくて、周りの方々といっしょに育てている感覚ですね」
北海道で生まれ育ったという千葉さん。東京の大学を卒業後、編集の仕事に就くことに。地域で暮らすことをぼんやりと考え始めていたところ、日本仕事百貨の記事を見つけた。
「お金の力がゆるくて、人のつながりが濃い場所にいつか身を置きたいと考えていて。都会から物理的になるべく離れた、地域のコミュニティが色濃く残っている場所を探していたんです」
2015年の4月から、協力隊に参加することに。3年の任期を終えた年の11月に、このらくだ舎をオープン。
らくだ舎のある場所は、いまでは村唯一の商店になってしまった色川よろず屋という商店のなかに併設してある。よろづ屋を引き継ぐ話をもらったときに、自分たちのできることで協力したいと、よろず屋の店主には店を続けてもらいながら、そのなかに喫茶店兼本屋を開くかたちを選んだ。
いまは週3日の営業で、そのほかはフリーで編集者・ライターの仕事を柱に、地域の仕事もこなしながら、複数のなりわいを組み合わせて暮らしている。
「色川の協力隊の面接って、役場の人ではなくて、原さん、伸一さんとか地域に住む長老7人くらいとお話しするんです。『彼女がいるのか』とか、『こんなところ来ても仕事ないよ』なんて言われて。すごく信頼できるって思ったし、ここで生活していくイメージができた」
「棚田や山や川といった自然の美しい景色は、日本全国にありますよね。その土地その土地で違うのは、そこに住む人。歓迎しすぎず、けれど親身になってくれる、地元の方のそんなバランスが良いなと思って」
移住してみてどうでしょう。
「色川では、”生活”ができていると感じるんです」
”生活”、ですか。
「野菜や卵を、当たり前につくっている人や環境がとても身近で、生きることと直結している。東京では、お金を稼いで、稼いだお金でご飯を食べて生きていく、というようにワンクッション挟んでいますよね」
「水を引くことも、土地を整備することも、お風呂沸かしたら泥水だったこともある。人任せにせず、すべて自分でやる。それが普通だし、”生活”だなって思えるようになりました。日々、普通に生きていること自体が、地域と関わっていることにつながる。それが心地よいですね」
これからのことは、考えていますか。
「任期の3年で、その土地のことを理解して住み続けることを判断するって難しいと思っていて。僕は、10年間住んで、やっと少しずつ掴めてきた感覚なんです。でもきっと、わかりきることはないんだってことが、10年経ってようやくわかりました」
「ただ、地域の人が減り、地域全体の営みが小さくなるなかで、現実的な未来も考える。色川だけで考えずに、ほかの地域と交わりながら、次の種をまいていきたい。それもらくだ舎を続ける意味ですね」
原さんと伸一さんが話しているなかで、印象的だったこと。
「人がつくりあげてきた歴史があって、その将来を考えて、残す。その体験が、きっと財産になると思っています」
「いずれは、移住者が10割になる未来が訪れる。地域を守り続けることって、どういうことなのか。そのことに興味ある人に来てほしい」
地域の人の大事にしていることを、知ろうとする、わかろうとする。
その姿勢を持って、わがらの村を守るために活動したいと思える人を待っています。
(2024/08/06 取材 田辺宏太)