コラム

「しあわせな転職」
心地よい距離感で
伝統文化と歩む

しあわせな転職ってどんなものだろう?

答えは人それぞれで、きっと正解はありません。

このコラムでは、日本仕事百貨の記事をきっかけに転職した人たちを紹介していきます。将来的には、コラムの一部をまとめた書籍も出版する予定です。 

どんな想いで仕事を選んだのか、その後どんなふうに働いて、生きているのか。それぞれの選択を知ることで、自分にとっての「しあわせな転職」を考えるきっかけになればうれしいです。

麻布香雅堂 松本紗代子さん

麻布十番にある和の香りの専門店、麻布香雅堂(こうがどう)。茶道・花道と並ぶ日本三大芸道「香道」にまつわる道具から、美術館やコスメブランドなどとのコラボレーション商品、生活に身近なお線香や香り袋まで、香りを愉しむためのさまざまな商品を扱っています。伝統を守りながら、現代の暮らしや文化と融合させることで、香りの可能性を積極的に広げてきたこのお店。2018年に入社し、接客から事務まで店舗運営に幅広く携わっているのが、松本紗代子さんです。

ずっと絵を描くことが好きで、学生時代は美大で美術史や民俗学を学んでいました。もともとは制作系の学部に入りたいと思っていたんですけど、予備校に通ううちに、4年間描き続けるって結構ハードルが高いなと感じるようになって。そんなとき美術の先生が、美術史っていう分野があることを教えてくれて、こういう道もあるんだ、と。将来学芸員になれたらと思って勉強をはじめました。

大学では民俗学系のゼミに入って、いろんな地域のお祭りや土着の文化を見に行きました。もともと幼いころから昔話とか、妖怪が出てくるような本とか、すごく好きで。高校生のころに読んだ柳田國男さんの「遠野物語」をきっかけに、民俗学っていう分野により興味を持ったんです。生活に根ざしている文化が、昔から好きなのかなと思いますね。

在学中には、茶道を習いはじめました。お茶って、“総合芸術”と言われるんです。お花を飾って、お香を焚いて、季節のお菓子と美術品のような道具でお茶を愉しむミニマムな展示空間、みたいな。面白い文化だなと思って、大学院では本格的に日本美術史を学びはじめました。

そこでの研究テーマは、お茶室の飾りの大元にあるとされる、室町時代の武家の座敷飾りについて。すごくマイナーですよね(笑)。そこには、同じころに発祥した香道の道具が飾ってあることも多くて、香りについては全然知らなかったけれど、道具のことにはずっと興味がありました。

座敷や床の間に飾る道具から、人の生活や価値観が見えるのが面白くて。たとえば、当時の最新の建築様式でつくられている部屋に、七宝焼(しっぽうやき)でつくられた道具がたくさん飾ってある場合。七宝焼も当時目新しいものなので、そこの当主は空間を新しいもので固めて権力を誇示していたのかな、とか。そういうことに気づけるんですよね。

仕事でも日本の伝統文化に関われたらと思って就活していたんですけど、学芸員はあまり向いていないのかも、と思いはじめました。美術品の分野って伝統に重きを置くぶん、新しい何かが生まれにくい世界なのかなと感じて。伝統に関わりつつ、もうちょっと流動的な世界に身を置きたいと思いました。

ただ、いくつか企業の説明会に行ってもしっくり来なくて。そんなときに日本仕事百貨で香雅堂の記事を見つけました。

「80歳にもなる先生方から学ぶことはとても多くて。ひとつの物事に対して時間をかけて楽しむことの良さも教えていただきました。だから僕たちも自分たちの興味の持てる範囲でゆっくりできたらと。細く長くやれるのが、一番だと思っています」

「お香の本場は京都で、千年の歴史があります。私たちもとても尊敬していますし、勝負しようとは思っていなくて。東京だからできることを、結構意識しているんです」

「美術館に行ったときに道具の使い方がわかったり、お庭や和室を見たときには配置がよく考えられていることに気づけたり。日本で普通に生きていくことが、もっと楽しくなるんですよ」

『香りと歩む』より  

ある小説のなかに、わたしがとても影響を受けた「人は与えられた条件のなかで、自分の生を実現していくしかない」という台詞があります。その考えと香雅堂の方針に通じるものを感じて、この会社は自分に合っているかもしれないと、応募しました。

実は当時の募集は、社会人経験3年以上が応募条件だったんです。「学生でも応募していいですか」とダメ元でメールを送ったら、いいですよって返信をいただけて、入社することができました。

最初のころはずっと緊張しっぱなしでしたね。特に事務仕事はほぼ初めてで、ミスしないようにっていつも考えていましたけど、結局ミスったりとか(笑)。でも、みなさん温かく見守ってくれました。

お茶の世界と通じる部分もあったし、香道具のことも少しは知っていたけれど、お香の材料や香道の作法など、香りについては入社後に一から学んでいきました。

香りを覚えるのは大変でしたね。言葉で香りを説明するのって難しくて、仕事の合間に写真とメモをとって覚えていきました。初めての方にお勧めするときは、「癖がなくてさっぱりしていますよ」とか「畳の井草の香りのイメージです」とか、噛み砕いて伝えます。たとえば今お店で焚いているのは、女郎花(おみなえし)という、夏らしい爽やかな香りなんですよ。

今メインで担当している業務のひとつが、「お香の定期便」です。1月から12月まで、季節に合わせた12種類のお香が毎月自宅に届くもので、言ってしまえば、お香のサブスク。お客さまの管理と、梱包や発送業務を月100件ほど、ほぼ一人で担当しています。手探り状態からはじめて、今はだいぶやり方も固定化されてきました。

何百年も続いてきたものをどう現代社会で残していくか、どの文化も模索していると思うんです。歌舞伎だったら漫画作品が題材になることもあるし、お香の定期便もそうですよね。生活スタイルに合わせて、その都度形を変えてきたからこそ、残ってきたんだと思います。これまでどう変化してきて、これからどう変わっていくのか、そういう部分も含めて伝統文化は面白いし、好きですね。

香雅堂は伝統を守りつつ、それを絶対とはしない柔軟な社風がいいなと思っています。実はわたしは、プライベートではたまにお香を焚くくらいで、正直香りにものすごく興味があるわけではないんです。仕事とプライベートをきちんと分けたいタイプっていうのもあって、あまり持ち込まないですね。香りのことを知るのは楽しいんですけど、のめり込むほどではないというか。それくらいの付き合い方が仕事しやすいなって、個人的には感じています。

実はもうすぐ産休に入る予定です。残業もなく、プライベートと両立しやすい会社なので、長く働き続けられそうだなと思っています。新しい取り組みも多いので日々好奇心を持って働けるし、好きな伝統文化に関わり続けられるのもモチベーションのひとつです。子どもが産まれてどんな働き方ができるのか、まだわからない部分も多いですけど、こんな環境ってなかなかないと思うので、大切にしていきたいですね。

2022年8月23日 東京・麻布十番 麻布香雅堂にて
聞き手 増田早紀