求人 NEW

島で働くきっかけをつくる人
仲間が増える
まちの風景が変わる

※日本仕事百貨での募集は終了いたしました。再度募集されたときにお知らせをご希望の方は、ページ下部よりご登録ください。

まちで働く人が増えている。

そろそろ閉じようと思っていた食堂が、せっかくだからと営業を続けている。

島に愛着を持ち応援する人が、全国各地に増えている。

そのきっかけになっているのが「大人の島留学」というプロジェクトです。

2020年に島根の離島、隠岐諸島の島前地域ではじまった「大人の島留学」。

3ヶ月または1年間、海士町、西ノ島町、知夫村のある3つの島に滞在しながら働くことができる仕組みです。

今年は年間100人以上の若者たちが、島の仲間として活動中。人の流れができることで、島の暮らしにも変化が生まれはじめています。

ここで募集するのは、大人の島留学に参加する人が働き、暮らすサポートをするコーディネーター。

どんどん周りを巻き込んだり、相手の話をよく聞いたり。

自分の特徴を活かしながら、それぞれの島で仲間を増やしていくコーディネーター、3人に話を聞きました。

 

本土からフェリーに乗って3時間。

待ち合わせしている海士町の菱浦港では、売店で買いものをしたり、ベンチに座って話していたりと、若い人たちの姿をよく見かける。

「3ヶ月を過ごす島体験生19人が、今週到着したところで。これからどこで、なにをしていくのか、1人ひとり面談しながら決めているんです」

最初に話を聞いたのは、海士町でコーディネーターとして働くロドリゲスさん。

教育に関心があり、この地域の高校を中心に行われている教育魅力化プロジェクトのインターンとして、東京からやってきたのは5年前。

当初1年だった予定を延長し、島の教育に2年間携わった。

「プロジェクト自体もそうなんですが、ここでの暮らしがすごくマッチして。いつまで島にいるのかわからない自分にも、『これをやってくれないか』って頼ってもらえるのが、素直にうれしかったんです」

海士町では教育のほかにも観光、産業などさまざまな分野でプロジェクトが進められている。

移住してくる人も多く、人口約2300人のうち、6人に1人はIターン。島外から来た人たちが、地域のなかに馴染んで暮らしている。

「社会の規模が小さいぶん、仕事のこともまちのことも、誰がどう決めているのかプロセスが見えるんです。手をあげれば自分が関わることもできる。まちを自分たちでつくっている、社会の一部として生きている実感を持ちやすい場所だと思います」

2年の島暮らしを終え、いったんここを離れようと考えていたときに新型コロナが流行。

移動ができず、ただただ島で過ごしていたとき、SNSで大人の島留学というプロジェクトがはじまることを知った。

若い人が気軽に島に滞在するきっかけをつくろうと、まちをあげてスタートした大人の島留学。

ロドリゲスさんは、島留学を運営する事務局で働くことを希望し、参加した。

「教育のインターンをするなかで、学校を卒業した生徒が島を出たあとの関わりかたに関心があったんです。大人の島留学は、卒業生が気軽に島に帰ってくるきっかけにもなるだろうって。島留学生として半年活動したあと、そのままスタッフとして働き続けることになりました」

島留学生の住まいにする空き家を掃除したり、やってくる人たちのサポートをしたり、働く先になる事業者と相談したり。

本格的にスタートしてから3年目になる今年は、1年間をすごす島留学、3ヶ月間の島体験で合わせて100名以上の人を島外から受け入れている。

「当初、『200人呼びたいね』なんて言ってたんです。200人って、海士町だけで考えたら人口の10分の1なわけですよ。いやいや無理でしょうって思いながらもどうにかやってきて、毎年着々と受け入れ人数が増えています。驚きつつも予定通り、っていう感じですね」

受け入れ先が決まった大人の島留学生は、島の仕事をしながら1年を過ごすことになる。

飲食店で働く人もいれば、岩牡蠣の養殖をする人、役場の新規プロジェクトを企画から任される人もいる。

お試し移住、というよりは、島の一員としてここで働くというほうが近い。

島で過ごす時間のなかで「自分がどうありたいかを突き詰めてほしい」とロドリゲスさん。

「うまくいかないこともいっぱい起きると思うんです。事業者さんや島の人たちと関わりながら、課題を乗り越えていく。そうやって自分がなにか成し遂げた体験、ここで自分を伸ばせたっていう経験をしてもらいたいですね」

「その結果、島を離れてもまた来ようとか、遠くからでも島の人を応援しようと思う人が増えていったらいいなって。僕らの仕事は、この島を支える仲間を全国、全世界につくっていくことなんだと思っています」

島留学生を受け入れることで、まちの日常に変化が生まれはじめている。

自転車で行き来する若い人たちの姿をよく目にしたり、島での様子を発信する記事が毎日のように公開されていたり。

移住を前提としていないものの、島で就職し、そのまま働き続ける人も出てきている。

「店じまいを考えていた飲食店が、若い人たちが来るからって閉めるのを延期しているらしくて。若いお客さんはおいしいと食べてくれるし、お客さんが増えれば当然儲かる。やる意義が出てきているんだと思うんですよ」

「島にはさまざまな課題があるけれど、人の還流が生まれることで解決できることがあるんだと思います」

 

島の風景が変わってきた。

海士町からフェリーで10分の西ノ島町でも、同じことが言えるそう。

ここでコーディネーターをしているのは、西ノ島出身の近藤さん。

「高校のころに地域活動をしているなかで、ここの人たちに恩返ししたいっていう気持ちが芽生えてきました。大学進学で東京に出たものの、いつかは帰りたいって考えてはいたんです。だけど、『そのころにはもう島に人が住んでないかもよ』って言われて、たしかにって」

予定よりも早く島に帰ることになったのは、夏休みに帰省していたとき、高校の卒業生が集まるイベントに参加したことがきっかけだった。

「それを機に卒業生が集まる企画を考えたり、東京で開催するイベントの手伝いをするようになったんです。卒業生に限らず、若い人たちが気軽に島に行ける仕組みがないか話しているなかで、ポッと出てきたのが『大人の島留学』という言葉でした」

盛り上がったアイデアは、すぐに役場やまちづくりをしている組織で検討された。予算も受け入れる体制もないところから、1ヶ月もしないうちに開催が決定したそう。

近藤さんは島に戻り、昨年の4月から西ノ島町のコーディネーターとして活動をはじめている。

島前地域のなかでは比較的観光客が多く訪れる西ノ島町では、海士町ほど移住者の数が多くない。

最初はどの事業者も、島留学生の受け入れに慎重だったそう。

「1年で帰ってしまう若者に対して、なにを任せていいのかわからない状況でした。お客さまとして扱うんじゃなくて、この島ならではの仕事を経験してほしい。前例をつくらないとはじまらないので、まずは島留学生を送り込んで、やりながら環境を整えている真っ最中です」

ぐいぐいとプロジェクトを進めている様子の近藤さん。

受け入れる事業者にも戸惑いがある。

それでも西ノ島町で島留学を進めるのはなぜだろう。

「最初のころはシンプルに、人手不足を解決するために必要な仕組みだと思っていました。西ノ島は個人の事業者さんも多いんですが、みんな高齢で、あと5年もすれば引退していくところが増えます。働く人が減ってしまうと、今の暮らしが担保できなくなるかもしれないんです」

3ヶ月でも1年でも、まずは島と関わる人を増やす。

その数が増えていくうちに、島を何度も訪れたり、島に残って仕事を継ごうという人が出てくるかもしれない。

小さな可能性でもできることをし続けなければ、この島の暮らし、そして未来をつくることができない。

「だけど、今どうして継続しているのかと聞かれたら、シンプルに楽しいからだと思います」

最初はしぶしぶ受け入れていた事業所の方が、島留学生が離島するときに見送りに来て、感傷に浸っている場面を目にすることがあった。

居酒屋にいくと、島留学生と地元の人たちが楽しそうにしている姿に出会うことも増えてきた。

「そういうシーンを見ていると、ちょっとずつでもはじめることで、なにかが生まれていくんじゃないかなって。島留学をはじめて、確実に変わってきていると感じるんです」

 

人を巻き込みながら状況を変えていこうとする近藤さんとは対象的に、知夫村のコーディネーター猪原さんは、人の話をよく聞くことを大切にしているそう。

「私は知夫村の人たちとほぼ関係性がないところからのスタートでした。理由をつくって島の人たちに会いに行って、また来ますねって連絡先を教えてもらって。どれだけ頼れる先を増やすか、どれだけ電話番号をゲットできるかが一番最初のミッションでした」

大学の先生の紹介でこの地域にやってきて、最初は岩牡蠣をひたすら磨くアルバイトをしていたという猪原さん。

さまざまな人と話すなかで、自分の手で自分の暮らしをつくっていく人が多いことにひかれ、この島で働き続けることを決めたそう。

知夫村の人口は約600人で、そのうち46%が65歳以上、子どもが100人。残りの200人で島全員の生活を支えているような状況にある。

そのなかで今年は、6名の島留学生が活動している。

「島の生活を維持していくために、外から来てくれる人の力を頼りにしないと、できることがあきらかに減っていく状況にあって。仕事を短期間でも手伝ってくれることは、島にとって心強いんです」

「あの人はどの事業所にいる、あの子はこんなことができるらしいって、すぐに覚えてもらえます。たとえばデザインができる人が来たら、みんなから声がかかったり。いい意味でも大変という意味でも、すごく頼られる場所ですね」

働き先の事業所が決まれば、その後は島留学生と事業所に任せ、困りごとがあれば調整するのがコーディネーターの立ち位置。

とは言え、まだはじまったばかりのプロジェクトということもあり、自分の役割は試行錯誤の連続だという。

「基本的には予定通りにいかないことのほうが多いし、思った通りの反応が返ってくることのほうが少ないですね。3ヶ月の島体験で来ていた人が、最後の報告会で『知夫は、スキルなど自分の武器を持っている人には挑戦できる環境だけど、なにもない自分は苦しさを感じるときも多かった』と話していて」

「そんなことないよって、思っていても言ってあげることができなかったんです。悔しかったですね。これまでのやり方でいいんだろうかって、コーディネーターの役割について考えさせられるきっかけになりました」

今、コーディネーターとしていろいろな人と関わるなかで、気をつけていることはありますか。

「聞くこと、ですかね。島留学生からも事業所の方からも、まずは話したいって思える相手でいようって。あとは待つこと。人それぞれ、タイミングってあるんですよ。その人が自分で決めて動き出すタイミングを待つことは、これからも大切にしたいなって思ってます」

 

コーディネーターの仕事の大半は、困りごとの相談相手や調整役。

そのときは大変でも、人が出会い、関わり、関係が育まれていく先に、忘れられないような場面に立ち会う機会も少なくないはず。

この島での思い出を、そして島の未来をつくっていくような仕事なんだと思います。

(2023/10/4 取材 中嶋希実)

今回の取材では、島前地域で暮らし、働く人たち19人に話を聞きました。さまざまな挑戦が生まれていく風土が育まれてきた話を、コラムで紹介しています。

12月8日には、話を聞かせてくれたロドリゲスさんや島前地域の人たちと一緒に、東京・清澄白河のリトルトーキョーでしごとバーを開催します。記事を読んで、もっと話を聞いてみたくなった方も、ただただ飲みながらお話ししたい方も。配信もあるので、よければ覗いてみてください。

しごとバー「やりたい!に素直な人たち 挑戦と生きる島で

この企業の再募集通知を受ける

おすすめの記事