遠くに見えるのは有明海。そのまた向こうに、長崎の雲仙普賢岳。目をこらせば、住宅街や青々とした田んぼが広がる様子も見えてくる。

ここは佐賀県小城(おぎ)市。まちなかから車で15分ほど離れた江里山という地域です。
標高250mの小高い山の上には、およそ600枚の棚田が広がっています。
「日本の棚田百選」にも選ばれた、美しい景観。山をのぼってくる道中に、手描きの案内看板があったり、かかしが出迎えてくれたり。地元の人たちが、この景観を大切に守り継いできたことがうかがえます。

この地域を拠点に活動する“棚田げんきスタッフ”で、元地域おこし協力隊の田中あきさんを訪ねました。

日本仕事百貨では、佐賀が今力を入れている地域おこし協力隊を特集しています。詳しくは特集のTOPページもあわせてご覧ください。

小城市出身の田中さん。
高校卒業後は、東京の大学へ。そのまま都内のビルメンテナンス会社に就職して働いていた。

「東京にいるあいだに、父方の祖父母が他界したんです。いずれ両親ともお別れのときがくる。だけど当時は夏と年末ぐらいしか帰っていなかったので、会えるのは10年であと20回…? そんなことを考えるうちに、佐賀に戻りたいなっていう想いが、だんだんと強くなっていったんですよね」
2021年3月、13年勤めた会社を退職。
次の仕事は佐賀に帰ってから決めようと思っていたものの、退職の少し前に転機があった。ふるさと回帰支援センターの相談員との出会いだ。
ふるさと回帰支援センターは、東京・有楽町にある移住相談窓口。移り住みたい人と全国の地域をつなぐ専属の相談員が常駐している。
東京に暮らす田中さんの姉と、佐賀の移住相談員がもともと知り合いだったことから、まずは一度話を聞いてみることに。
「わたしが大事にしたいことや、小城市で働きたい気持ちをうまく汲み取っていただいて。もしかしたら興味が湧くんじゃないかということで、地域おこし協力隊の募集情報を紹介してくださったんです」
協力隊について詳しくは知らなかったものの、説明を受けるなかで強く惹かれるものがあったそう。
「選考はとんとんとん、と進んで、2ヶ月後には佐賀に帰ってきました」

協力隊としてのミッションは、江里山地域の活性化と情報発信。
Uターンとはいえ、車で15分ほど離れた市街地が地元で、江里山には来たことがなかったという田中さん。まずは地域について知ることが活動の第一歩だと考えた。
共同で行う草刈りやお祭り、郷土料理の「さしみこんにゃく」をつくるグループなどにも積極的に参加。そのなかで「だんだんだより」の発行もはじまる。
だんだんだよりとは、江里山地域の住民限定で田中さんが毎月発行していた、小さな読みもののこと。協力隊の活動報告も兼ねつつ、江里山でこんなことができたらいいんじゃないか?というアイデアの種や、地域の課題解決につながるような先行事例も紹介。
外向けの広報誌ではなく、地域の人たちとの関わりしろをつくる“コミュニケーション誌”として編集されているところが秀逸だ。

さらに、公民館に集まっておしゃべりする座談会も企画。いまだに月一度のペースで続いているそう。
「自分の住む地域について考えたり話したりする機会って、意外とないと思うんです。そのきっかけをつくりたくて。いきなり話すのはハードルが高いと思うので、お茶やお菓子を食べながら、楽しみながらですね。今日の午後にも集まりますよ」

協力隊2年目からは、土地を借りて米や野菜をつくってみることに。
自分で農業をはじめてから「地域のみなさんとの距離がグッと近くなった」という。
「わからないことを教わったり、手伝うときも作業の意味がよく理解できたり。仕事にも暮らしにも農業が密接に関わる地域なので、まず土に触れるのが一番の近道だったのかもしれません」
本業や副業として、住民のおよそ半数が米づくりに携わっている江里山地域。
農業は生計を立てるための生業でありながら、地域と関わる入り口にもなる。
地域に貢献したい企業と地域をつなぐ佐賀県の事業「棚田ボランティア」や、中高生が江里山で農業を体験する「たなだ部」のコーディネートなど。農業を介して地域の内と外をつなぐことは、田中さんの活動の軸になっていった。

そんな活動の日々は、田中さんが開設したInstagramアカウント「江里山の棚田」からも垣間見える。
「ここは見るものすべてがすごく新鮮で。自分がいいなと思った景色を中心に、農作業の様子や、毎年9月に開催される『ひがん花まつり』の情報などを発信していきました」
季節ごとに咲く花、伸びてきた田んぼの苗、水面に映る山と空…。
撮影した田中さん自身の静かな感動も伝わってくるような、飾らない風景の連なりが美しい。

撮りためた写真のストックを活かして写真展も開催。活動が知られるようになると、市内の中学や高校、市外に出向いて講演をする機会も増えていった。
「江里山には棚田以外の魅力もありますし、中山間地域としての課題もあります。活動を通じて見えてきた、この地域の現状やいろんな表情を、これまでつながりのなかった方々にも少しはお伝えすることができたかなと思っています」

今ではすっかりこの地域に馴染んでいる様子の田中さん。とはいえ、地域おこし協力隊を受け入れるのは、江里山の人たちにとってはじめてのこと。
当初はどんな気持ちで迎えていたのだろう?
田中さんがお世話になっているという、江里口博さんにも話を聞いた。江里山棚田保全組合の組合長で、お米とみかんを育てている。

「田中さんが来たときは、地域おこし協力隊ってどういう仕事をされるのかな、自分たちにどういう利益があるのかなと思って見ていましたね」
半信半疑というか。ちょっと距離感があったわけですね。
「そうです。その認識が少しずつ変わっていったのは、地区の草刈り。草刈機を自分で購入して、数回で覚えて。まあ上手なんですよね。トラクターでも田植え機でもなんでも、何回か使ったらもうできる。そういうところがある」
「夏場も外に出られないような暑さのなか、下の田んぼを見たら田中さんが草取りをしていて。感心しましたね。それで二十日会にも入ってもらって」
もともと江里山では、食用のうるち米だけを栽培していたそう。ただ、軒並み高齢化が進むなかで、耕作放棄地となる棚田も増えてきた。
そこで新たな付加価値を生もうと、2023年から酒米を育てはじめたのが二十日会のメンバーだった。
昨年からは、江里山地域のふもとにある創業150年を超える老舗酒蔵「天山酒造」と共同で、棚田米を使った酒造りもスタート。発売するとすぐに売り切れてしまったそう。
販売用とは別に、オリジナルのラベルも製作。よく見ると、田中さんや江里口さんの姿も描かれている。

「田中さんが来て、地域のまとまりがよくなったと思いますよ。以前は関わりを持ちたくない方も多かった。自分も、自治会の任期中はやるけど、任期を終えたらもうやめてくれ、という感じでした。今は、やっぱりやらんばいかんかなって」
「この景観を守っていくためには、外の人の力も借りないとやっていけません。田中さんは、何かお願いするとすぐに『いいですよ』って返事をくれる。いろいろと助かってるんです」
そんな言葉を隣で聞いていた田中さんが続ける。
「わたしも地域のみなさんにはよく相談させてもらっていて。自分ひとりでどうしよう…って考え込むことはなかったんです。相談すると、ちゃんと前に動いていくんですよね」
目の前のことに真摯に取り組む田中さんの姿に、地域の人たちも触発されて。お互いに顔が見える60名ほどの地域住民との関係性のなかで、田中さん自身も手応えを感じて。
頼り、頼られることで、地域の未来が少しずつ“自分ごと”になっていく。そんな循環が生まれていったのだろうな。

コロナ禍の影響もあり、4年務めた協力隊の任期を満了したのは今年の3月のこと。
その後も田中さんは集落支援員として江里山に関わり、「えりやまの風」という屋号でお米や野菜の栽培・販売も続けている。今は地域のお店からお願いされて、ハバネロを育てているんだとか。
これから、どんなことをやっていきたいですか?
「大きなくくりで言ったら、この地域を一緒に守ってくださる方を増やしたいんです。ガチガチな感じではなく、気が向いたときに来てもらうとかでもいいので」
協力隊時代から今に至るまで、小城市街の実家から江里山に通っている田中さん。昨年4月からは江里山にも物件を借りて、事務所として活用しはじめた。
「カフェとか民泊にしたら?とも言われるんですが、自分ひとりではそこまで手が回らなくて。もしもそういう目的で使いたい方がいらっしゃったら、一緒に交流拠点として活用していけたらいいなと思っています」

インタビューがひと段落したところで、棚田を見せてもらうことに。
対向車が来たらすれ違えないような細い道を、軽トラックはぐんぐん進む。
道中にはイノシシ避けの柵が数カ所設置されていて、その都度田中さんが車を降りて開けてくれる。まるでテーマパークのようだと話したら、「最近沖縄にオープンしたジャングリアって、こんな感じですかね(笑)」と田中さん。

やがて、パッと視界がひらけて、目の前に棚田が広がった。
山の木々に守られながら、膝丈ほどまで伸びた苗が風にそよそよと揺れている。
「実際に来てもらったら、江里山のよさってきっと伝わると思うんです。農業以外でも、この風景を見にくるとか、座談会に参加してもらって一緒にお話しするとか。いろんな形で、来ていただくきっかけをたくさんつくっていきたいですね」

この仕事にどんな意義があるだろう。どんなふうに生計を立てていけるだろう。
そうして現実に目を向けて考えることも大切です。ただ、考えることで足が止まってしまって、前へ進めなくなるのはもったいない。
目の前に立ち現れる風景に心動かされ、人と、課題と向き合いながら、自分にできることを積み重ねていく。そんな地道でのびやかなスタンスが、田中さんと江里山地域の今をつくってきたのだなと感じました。
来年2月18日(水)には、田中さんをゲストに迎えたしごとバーを開催します。直接話を聞きたい方はぜひご参加ください。当日は江里山の棚田米でつくった日本酒も楽しめるようですよ。(※来年1月上旬にイベント参加者募集開始を予定しています)
今年度、佐賀では約40名の地域おこし協力隊を募集する予定です。募集の背景や詳しい募集内容については、下記ページもあわせてご覧ください。
🔗 佐賀県地域おこし協力隊Webサイト(外部サイトへ移動します)


(2025/07/31 取材 中川晃輔)