畠豊二さんのお話

島でガソリンスタンドを営んでいる豊二さん。ガソリンスタンドの横にある小さな事務所でお話をお伺いしました。

ナカムラ:
お仕事はどういうものですか。

豊二:
このガソリンスタンドに、電気、ガスなんかも国家資格の免許を取ってやっているんだけども。あとはここのスタンドで油売ってるだけじゃなくて、ちょこっとしたバイクの修理とか、車の修理とか。そういうのをひっくるめて、やってるんだけどなあ。

ここではとにかく、なんでも自分たちでしないと間に合わない。たとえば、なんかやるにしても部品が足りないってなったら、屋久島に電話して。ほいでも、その日は結局なにもできないでしょ。屋久島にモノがあっても、船が1日1便しかない。次の日に送ってもらって、次の日にしかできないという不便さがある。

ナカムラ:
この島のご出身なんですよね。ずっと島に住んでらっしゃったのですか?

豊二:
ずっとじゃなくて、高校は鹿児島に出たんだけども。それから、高校卒業して、都会の会社に勤めて。まず造船所だったんだけども、造船所で溶接の資格とか取って。それから、造船所も希望退職を慕っていたので。その当時、湯向(島の東側の集落)に親父とお袋が住んでたから。私も長男であったから、いずれは親を見なあかんかなぁと思って。昭和60年に帰ってきたんだけども。

ナカムラ:
昭和60年というと、25年くらい前?

豊二:
そうだな。その前にもちょこちょこ帰ってきてたんだけども。そして、親父が牛を飼ってたから、牛を飼いながらスタンドで仕事をしていたかな。

ナカムラ:
実際に戻ってこられて、はじめはどのようにしてお仕事を見つけたのですか?今回も移住者を募集するのですが、仕事が用意されているわけではないので。

豊二:
島に戻る前は「島で農業を」というふうには思ってたんだけども(笑)。たまたまですね、昭和57、8年ごろ、はじめは口永良部に直接戻るんじゃなくて、屋久島で仕事をして。そのときに、ちょうど仕事してたところのお客さんが、スタンドをやってるところの社長だったんですよ。いま、空港の前にある、ENEOSのスタンド。あそこなんですよ。

あそこの社長がちょうど口永良部にスタンドをつくるという話で。私は別の会社にいたんだけども、いずれは永良部に帰ろうと思っていたので、「いい話だなぁ」と思いました。たまたま、その社長とも知り合いだったからね。そしたら「永良部に帰ってやらないか?」って誘われて帰ってきた。それが昭和60年だったの。

ナカムラ:
それから、だんだん、電気・ガスなどの仕事が増えていったんですね。

豊二:
そうだね。ただ、永良部に戻るまでは全く資格なかったから。スタンドの場合は、危険物の免許も取らなきゃいけないでしょ?危険物の勉強からして、それでまた、ガスのほうも勉強して。全部、資格取って。

それからだんだん永良部の人口も少なくなっているからね。最初来たころからすると、だいぶ少なくなってきてはいるけれども。

ナカムラ:
そうですよね、たぶん25年くらい前は、まだ200人とかはいたんですよね。

豊二:
そう。200人はいたよな。昔、私が中学校を出るころはね、だいたいクラスで30何名だったから。

ナカムラ:
1学年、1クラス、30人いたのですね。

豊二:
いたの。同級生がね。

ナカムラ:
この島に同級生、何人残っていらっしゃいますか?

豊二:
いまは私と、田代に住んでるので二人。あとはみんなもう、都会へ出てしまった。中学を卒業したのが38年かな。その当時、二年生も一年生も、同じくらいいたんじゃないかな。だから、中学校だけで、7〜80名。だいたい100名弱くらい、いたんじゃないの。

ナカムラ:
100名ですか。それは賑やかですね。

豊二:
あのころは、すごく賑やかだった。結局あのころは、まだ車も道路もなかったから、湯向から歩いて学校へ通っていたんですよ。そんなのが10何人いたかな。一緒に寄宿舎生活をしていました。

土曜日の昼に学校が終わってから、湯向にトコトコトコトコ…。あの当時で二時間半くらいかな…。山んなか歩いて家に帰る。で、湯向に夕方着きますよね。あのころは、牛も飼ってたし、馬も飼ってたし。帰ったら、牛馬の草切り、それもやらせられて。それから今の時期だと芋をつくっていた。あとは米もつくっていたから、草取りとか収穫なんかもしてね。だから勉強する時間は全然なかったけどね。

で、日曜日になると、昼からカゴに芋をいっぱい入れて、それを持って学校に戻っていく。自分たちの食糧のために。米は、まだあんまりなかったから。寄宿舎では、自分たちで料理もつくって。

ナカムラ:
中学生で自炊していたんですね。

豊二:
もちろん。

ナカムラ:
どんなものをつくられました?

豊二:
米はあんまり家から持っていけないから、ここの店でちょこっと買って。それでほとんど、芋が多くて。米のなかに芋をいれてね(笑)。あと、味噌汁。

ナカムラ:
10何人が共同生活?

豊二:
共同生活。1年から3年まであって。部屋が何部屋かあったんだけど、女子と男子で分かれてたけどな。そのころはね、電気も一日中ついてないから、だいたい夕方の6時から10時ころまでしか、電気がつかなかったな。

ナカムラ:
そのころと比べて、今はどうですか。

豊二:
賑やかじゃないな。あのころちゅったら、あちこちに家があったからね。今は空き地が多いんですよ。人が住んでない家なんか、つぶれてしまうから。だからもう、そういうころからすると、やっぱり、さびれてきてますね。

ナカムラ:
今後、「こうなったらいい」という島への希望はありますか?

豊二:
Uターンとなると、ほとんど若い人は来ないんだろうね。来ても、定年をすぎた、永良部の出身の人が来るくらいのもんかなぁ。となると、Iターンで余所から若い人が来るのがいいかなぁって思ってるんだけど。

そうなると、仕事の面もあるし、あるいは住むところがないもんだから…。そこらへんがね…。行政にも、公民館サイドからも、いろいろ陳情なりをして、できるだけ住宅の確保しないといけない。

だからいま、若い人が来るときも、結構、我々は難儀する(笑)。とにかく頭下げて下げて。最初私が来たころは、結構、油も売れていたんだけど。最近は全然…。公共工事っていうのが、ほとんどなくなって。

ナカムラ:
そうですよね。この島を訪れてみたい若い方に、何か伝えたいことがありますか。

豊二:
うん、やっぱり、こういう小さい島なもんで、不便だよね。都会の人っていったら、お金さえ払えば、なんでも手に入るじゃないですか。ここでは、それがあんまりこう…、できないんだよね(笑)。金はあっても、モノがないんだから。だけどここは…、いわば、農業なんて自給自足で、自分たちの食べるものはある程度自分たちでつくって食べる。

もし若い人たちがこんな田舎に来たいなら、自給自足を身につけたら定住ができるんじゃないかなぁと思うんだけど。

我々もできるだけ協力してね、もし足らないものがあれば、お裾分けしたりしたいな、と思ってる。それは永良部の人はみんな思ってるんじゃないかなと思うけどね。